地獄の沙汰も金次第




例の「保育園落ちた日本死ね」以来、保育園や学童保育の問題がSNSでもテレビでも話題になっている。確かにこの手の問題は、ローエンドのケースになると社会福祉やセーフネットという視点が絡んできて、冷静で論理的な議論ではなくなってしまうことが多い。これは介護の問題も同じである。というより「リベラル」を標榜する方は、すぐ話題をそこに持って行って、感情論、倫理論に持ち込みたがる傾向が強い。

それはそれで社会的には必要な視点だとは思うが、個々の事情は一人一人異なる。個々の事情をいちいち勘案していたのでは、制度そのものの良し悪しや是非を考えることはできない。ミクロの事情は、制度の運用の中で個別例外的な適応として対応すれば済むことである。制度そのものを考える上では、マクロ的な視点からの全体最適を考える必要がある。どうも日本人はこういう発想が苦手なようだ。

この結果おろそかになっているのが、この手の制度における「自己負担」と「バラ撒きヘの期待」とのバランスである。本来補助すべき金額というのは、画一的ではない。そもそも保育園の費用も、親の収入によって負担額が違う。両親ともフルタイム正社員で、あるレベル以上の年収があれば、公的補助がなく、全額自己負担になる。実は待機児童問題の原因の一つはここにある。

保育園を増設して総定員が増加したとしても、公的補助の総予算が拡大しなければ、全額自己負担の人しか入園できないことになる。おまけに役所の縦割り行政で、保育園の開園や定員増の管轄と、公的補助の管轄は異なっている。実際、期中に定員増とかある場合は、公的補助の予算枠は使い切っているので、全額自己負担でOKという人の子供しか入園できないことも多い。

しかし、これが逆に働くこともある。貰いたがる人は、本来貰える以上に貰いたがる。いったん「受益の味」を知ってしまうと、本来受益する以上に受益したがるのだ。補助を出す側がきっちりしていれば、いくら欲しがっても限度まで行けば「これ以上ダメ」と打ち止めることができるはずだ。しかし、官にはそういう仕切は不可能である。間に官が介在することにより、ユガみが拡大する。

官僚達は、公益法人の天下りポストの報酬など、自分たちの利権をオーバーヘッドとして入れ込むため、平等の名の元に支払条件を均質化・曖昧化し、費用対効果の検証が不可能なものとしている。これは、利用者の方からすると、本来貰えるべきものと貰ったものがバランスしているかというチェックが働かなくなることにつながる。検証がない以上、まさに貰い得なのだ。

こうなると、もっとくれ、もっとくれ。何でも、欲しい、欲しいになってしまう。概して、満たされたことのない人ほど、欲求に限度がないものである。あるレベル以上満たされた人は、量的なものでは幸せになれないことを、身をもって知っている。しかし、満たされたことのない不満の塊のような人は、自分の不幸を全て物質的に満たされていないことにこじつけがちである。だからフードファイターよろしく、いくらバラ撒いて貰っても満腹にはならないのだ。

かくして、どれだけモノや金を貰っても、どれだけしてもらっても、満足できずもっともっととなる。ましてや、自分の努力で得た金ではなく、天下の周りモノの税金である。よこせといったところで、自分は痛みを感じない。だから、ひとまずよこせと主張しようとなるのだ。福祉的な要素が強い施設ほど、入所者の不満が強く荒れる理由はここにある。

本当に必要な人のための福祉やセーフネットは、社会的に必要である。しかし、福祉やセーフネットに名を借りたバラ撒きは、百害あって一益なしである。これを峻別するカギは、悪平等かどうかである。福祉は平等ではなく、本当に困っている人にだけ社会が依怙贔屓して助けてあげるから意味があるのだ。悪平等は、官僚の悪事を隠す隠れ蓑である。やはりこれも、一旦税金として集めてから、官僚がバラ撒くというシステムが、制度を腐らせているのだ。


(16/03/18)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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