天賦の既得権益




一旦手に入れた権利は、永久に保障されるものではない。民法上の財産権のような権利なら、それは明白である。株でいえば、出資と引き換えに株主としての権利は手に入る。しかしその価格は、マーケットの動向により上下する。それとともに、権利の価値は上下する。もっというと、その会社が倒産してしまえば、株主としての権利は消滅してしまう。権利とは、そういうものなのだ。

ところがバラ撒き補助金など「官」が絡む権利となると、なぜか一旦手に入れた権益は、未来永劫享受できると思っている人が多い。「人権」がらみの領域でも、「福祉」予算のようにその権利を与えてくれるのが「官」になると、一旦手に入れた権利は永久保証と思っている人が多い。なんともオメデタすぎる話である。このように「権利は永久モノ」と思っているのが、既得権益にしがみつく守旧派の特徴である。

権利とは、基本的には権利を与える主体と、権利を享受する主体との間の関係性の中から生まれ、与えられるものである。「天賦の人権」とか言っても、その字面は「白髪三千丈」的な形容である。あくまでも国家や社会コミュニティーなどの集団が構成員の人権を尊重して初めて、「人権」が担保されるのである。そういう意味では、ある種の契約によって保障されているものである。

まあ時代や地域によっては、王権の正当性を「天」に求めた国家や、天=唯一神への求心力が存立基盤となっている宗教国家もなかったわけではない。そういう国家においては、超越した存在が人権の基盤になっているかもしれない。とはいっても、王権が倒されたり宗教戦争で宗教のプレゼンス自体が傾いたりして、その国家自体が傾いてしまえば、天賦であっても、その後も同様の人権が認められる保証はない。

権利は、民事の契約なのだ。社会環境・経済環境が変われば、権利として保障される内容が変わって当たり前である。願望として、一旦手にした権利は手放したくないし、永久に保障してほしいと思う気持ちはわからないでもない。権利とは、リスクに対するリターンとして初めて手に入れることができるものなのだ。通常は、リスクとしての義務を果たすことと引き換えに、権利が手に入るのである。

権利とは、すねかじりの子供が親から小遣いをもらうように、誰かから一方的に恵んでもらえるものではない。権利を与える主体と権利を受ける主体があり、その両者の間で対等のディールが行われ、両者の間で対等なバーターが成り立ってはじめて、与えられるものなのだ。そういう意味では、権利を得るための不断の努力があってはじめて、権利を持ち続けることができる。

権利の中には、チケットに例えれば、丁度株主優待券のように「貯めて」おいてまとめて使える性質のものや、施設利用券のように与えられるタイミングと行使するタイミングをずらすことができる性質のものも存在する。しかしそれらも、過去に得た権利を未来に行使できるというだけで、未来の権利が保障されていることを意味するものではない。そして過去に得た権利は、間違いなく何かの努力の結果として得られたものである。

自らその権利を得るための不断の努力を行い、その結果として権利を得るのであれば、何ら問題はない。権利とは、自ら手に入れるものなのだ。文句や愚痴は、権利を得るための努力ではない。何もしないクセに、権利を一方的によこせという主張こそ、盗っ人猛々しい。それをよこせというのは、悪であり犯罪的である。まさしく、「リベラルは泥棒の始まり」である。


(16/03/25)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる