高度成長というファンタジー




現代の日本が抱えている社会的問題のほとんどは、20世紀後半、昭和の時代に起こった高度成長が、あくまでも経済発展の一段階で起こる特異な現象であるにもかかわらず、それが未来永劫恒常的に続く変化だと勘違いしてしまったことに起因している。この間違いは、高度成長の恩恵が余りに大きかったがゆえに、それ以前の社会の掟を忘れ、高度成長がこのまま続いてほしいという願望を現実として捉えてしまったために引き起こされた。

そういう意味でこの幻想は、その恩恵にあずかれる時期の長さは時代や国によって異なるものの、経済発展によりテイク・オフする時期においては、どの国においても多かれ少なかれ見られるものである。さすがにここにきて曲がり角が見えてきたが、1980年代から2000年代にかけての中国もその典型である。しかし、皮肉なことだが中国の方が国が大きく発展が急速だった分、みんながみんな御利益に浸っていないため、日本よりダメージは小さいかもしれない。

高度成長幻想の弊害はいろいろなところに現れているが、その最たるものが、努力信仰・秀才信仰であろう。誰でも努力さえすれば、必ずチャンスがある。これはある意味、高度成長期の「ジャパニーズ・ドリーム」である。昭和30年代の高度成長期においては、確かにそれは事実だった。この時代は、急速な経済成長や社会構造の変化に世の中のシステムがついて行けず、産業社会化した新しいスキームに対応できる人材は引っ張りだこであった。

おまけに、この時代はまだコンピュータなどなく、情報処理はすべて人力でこなすしかなかった。重工業化し機械化した工場で働くブルーカラーや、本社で事務処理を行うホワイトカラーが、大量に必要となった。このニーズに泥縄で対応するには、教育によりある程度規格化された人材を促成栽培するしかなかった。そして、それは社会的な至上命題として実行に移された。かくしてこの時代、高校進学率ひいては大学進学率は急速に上昇した。

「ガリ勉」や「受験地獄」などが社会問題化したのもこの時代である。それはとりもなおさず、教育システムの中で努力し、規格化された人材になれば、それまでの農村共同体の中に埋没した存在から脱し、高度成長の恩恵を受けることのできる「会社員」となることができたことを意味する。だがそれは、社会的に必要とされる人材と労働力として存在している人材との間にギャップがある時代だからこそ起こった現象である。

人類の歴史を見るならば、努力だけで何とかなる時代というのは、異常にラッキーな時代であり、あくまでも特異点でしかない。社会構造が変化する時期にのみ、例外的にみられる現象である。人類の歴史の多くを占める、安定的な社会構造が続く時代においては、そんなことはありえない。これは、高度成長自体が永遠に続くことはないことがわかれば、すぐにわかることである。だが、現代日本ではいまだにそれを信じているオメデタイ人が多い。

人類は、その歴史のほとんどの時代において、自分の現状に満足し、その中に幸せを見つけることで生きてきた。だからこそ平和になるし、多様な人々が共存できる。多くの宗教も、それを助けるために生まれてきた。多くの民話や寓話も、今の自分を幸せと思える人でなければ天は見離すことを伝えている。幸せは、誰かから与えてもらったり、天下の回りモノで降ってきたりするものではない。自分が現実を肯定的に認め、悟ることでしか得られないのである。

才能も資産もないくせに、努力だけでいい思いをしようと思ってはいけない。ましてや、バラ撒きにすがっておいしい思いができると思うな。それらは、高度成長期の幻想である。もはやそういう時代ではないし、そういうことが許されたことの方が奇跡なのだ。努力をするのなら、自分が高望みをせずにいられることに注力するべきだ。もっというなら、これだけ求職と求人のアンマッチングがあるのだから、公的補助に頼る前に自分の収入を上げる努力をする方が先決だ。まずは自助努力である。


(16/04/08)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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