「上から目線」がジャーナリズムではない




民主主義の基本は、人々が求めることを「正しい」とすることにある。まさに主権在民、民意が政治や社会の進むべき方向性を決める。これが、一部のエリートの考え方だけで意思決定がなされる、貴族制の政体や絶対王政とは異なる点である。市民の総意がより良い選択なのかどうかというのは、この際関係ない。民主主義を選んだ以上、市民の多くが望んだものを選ぶべきなのである。市民が求めることを実現するのが、民主主義だからだ。

確かに、国家の意思決定における「主権在民」の問題点はある。大衆が選んだ結果が、大局的な見地からして最適解となっていないことも多い。ポピュリズムへの批判もしばしば行われている。しかしそれは、民主主義の取り入れたがゆえの問題点である。大衆の求めるものを良しとしないのであれば、民主主義を採用しなければいい。政治の意思決定プロセスは、民主主義だけしかないわけではない。

20世紀になって世界の先進国が大衆社会になり、それとともに普通選挙に基づく民主制が取り入れられた。日本でも1925年には、普通選挙法が制定された。日本の普通選挙は男性のみの普通選挙で、女性には選挙権がなかったことから非常に遅れた制度といわれがちだが、アメリカやイギリスという民主主義の先進国でも女性に選挙権が与えられたのは1920年代であり、グローバルに見れば決して遅れていたわけではない。

そういう意味では、20世紀が経済発展の世紀となったのも大衆社会化の恩恵であるが、同時に20世紀が世界大戦の世紀となったのも大衆社会化ゆえである。大衆は戦争を求める、大衆の意思は戦争を目指すのだ。大衆の多くは無産者である。すなわち大衆は失うものがない。意思決定において、「何かを失うリスク」を考えなくていい。これはすなわち、極限状態になると、極めて刹那的な選択を指向することを意味する。

資産や責任を持っている階級は、容易に戦争を始める決断はできない。戦争は、国富を奪うし、個人資産を失うことにもつながるからだ。しかし、無産者たる大衆は異なる。目先の感情論だけで、意思決定ができる。そのような人々にとっては、現状の閉塞感を打破できるの戦争は最高の希望の星である。まさに、民主主義の大衆社会が成立したからこそ、国民国家は雪崩を打つように戦争へと突進しやすくなったのである。

民主主義の国民国家が成立した国においては、軍隊もまた無産者大衆が牛耳る組織となっている。兵士が一般市民から成り立っているのはよく知られているが、問題は士官もまた大衆出身の秀才エリートが中心になっている点である。貧しい民主主義国ほど、軍の将校は低所得者層に生まれた優秀な人材が、努力によってエリートになれる数少ない「バイパス」となっている。これがまた大衆による「意思決定」と呼応し、戦争への道を準備する。

さらにいえば「ファシズム」も、民主主義が生み出した20世紀の政治的鬼っ子といえる。そもそも民主国家が成立しなくては、ファシズムは成立しない。ファシズムというと独裁者というイメージがあるが、その独裁権力は大衆が熱狂的に支持してはじめて生まれるものである。ワイマール憲法があったからこそ、ナチスは政権を取れた。プロイセン帝国が存続している状態では、ナチスは権力を握れなかったのである。

こう考えてゆくと、昨今の日本における自称「進歩的・リベラル」なジャーナリストの物言いには、かなり構造的な矛盾が含まれていることに気付く。大衆の選択を否定し、ジャーナリストの主観こそが正義であるとばかりに増長したもの言い。彼らは、一体誰が主権者だと考えているのだろうか。多数の大衆なのか、少数の自称「ジャーナリスト」なのか。そんなに「ジャーナリスト」のモノの見方だけが正しいと言えるのか。

もちろん、思想信条の自由があるので、件の「ジャーナリスト」氏のような見方をするのは自由である。それを世に問うことも自由である。しかし、それは大衆一人一人の思想信条の自由と等価である。互いに多様性を認めてはじめて、思想信条の自由は成立する。しかしここでの「ジャーナリスト」氏は、大衆を愚衆として見下し否定している。まさに、唯我独尊の「上から目線」の極みである。この視点自体が、民主主義とは対立している。

本来のジャーナリズムとは、自分の意見を偉そうに権威ぶって主張し、人々を従わせようとするものではないはずだ。彼らには大衆に寄り添って、その考えかたを理解し支持する姿勢はない。彼らは人々の味方ではないのか。民主主義の世の中なのに、「良識派」のジャーナリストはなぜ多数の大衆の選択を否定し、自分の選択だけが正しいと言えるのか。まさに横暴極まりない。これではペンの暴力だ。

民主主義とは、マスの求めているものを理解し、マーケット・インで実現することに他ならない。良識ぶって何にでも反対するだけの「リベラル派」など必要ない。オールドメディアの持っていた独占的地位に胡坐をかいていたツケが、インタラクティブメディアの時代になって回ってきたということだろう。こういう「ジャーナリスト」は、市民の味方を装った「権威主義者」に過ぎない。

具体的な提案、実現可能な提案をきちんと実行責任を伴って打ち出せてはじめて、現状に対する対案といえる。反対するだけでは、対案とは言えない。もともと責任能力のない社会主義的政党が、そういう無責任な反対行動をするのは仕方ない。彼らは、反対して何がしかのバラ撒きを得ることしか、アイデンティティーがないのだから。こういう連中が議員として税金から給料を貰っているのも腹立たしいが、そこは思想信条の自由である。

しかし、ジャーナリストは違うはずだ。自らの責任で、自らのリスクで、具体的な提案性を持つ発言を重ねてはじめてジャーナリストなのである。偉そうな上から目線で良識ぶった発言など、犬も食わない。ジャーナリスティックな視点で、キチンと声を拾い、それを伝えることができてはじめてジャーナリストなのである。名刺の「なんとか新聞記者」という肩書きがあるから、ジャーナリストなのではないのだ。


(16/04/22)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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