妬み文化




このところSNSなどインタラクティブメディアのUGMで目立っているのは、タテマエをバックに「出る杭を打つ」発言である。昨今ではインタラクティブメディアだけでなく、こういう論調を売り物にしている雑誌メディアが売れているなど、既存のメディアでも目に付くようになった。こういう論調の特徴は、何かへの不満がモヤモヤと心の中にあり、それを直接主張できないからこそ、代償行為としてタテマエ論で叩ける相手を叩いて、気分を晴らそうというところにある。

タレントや政治家の不倫叩きなどが典型である。こういう行為を見ると、そのモチベーションに「心の貧しさ」が垣間見られ、救いのなさを感じる。本当に「貧すれば鈍する」である。人間心が汚くなると、自分で努力したり反省したりすることがなくなり、周りや他人を妬むようになる。しかし、さすがに妬みを直接表に出すことははばかられる。そこで、「品行方正な自分が、世間のタテマエから外れた人間を叩く」というポーズを取るのだ。

困ったことには、この「妬み」というのは性癖であって、環境や教育で変わるものではない。唯一、高度成長やバブルなど、右肩上がりで「自分の明日に期待ができる」時だけは表に出てこなくなる。だからこそ、20世紀後半の日本では、一瞬問題が解決したように見えただけなのだ。しかし、これは両刃の剣である。期待がある間は妬みは表出してこなくとも、一旦期待が裏切られると、倍増した妬みが一気に爆発することになる。

このところ、またぞろこの問題が顕在化したというのも、失われた20年によりバブル期までの「期待」が完全に崩壊したことを多くの人達が実感したからと言える。そういう意味では、経済成長は何も解決しなかったともいえる。逆にいえば「元に戻っただけ」かもしれない。「妬む文化」を背負う人たちは、どんな状況下でも一定数いるし、それはどんなに環境が変化しても変わらないのだ。

少なくとも日本においては、社会主義運動・共産主義運動といった政治活動も、その主要なモチベーションは「妬み」にあったということができる。「アイツばっかりいい思いをしやがって」。「オレ達もいい思いがしたい」。平たく言えば、そのエネルギーを利用し、単なる勝手な思い込みの妬みでないという「理屈付け」をするために、社会主義が利用されたのである。これは、普通選挙法が施行され、無産者の政治運動が盛んになった昭和初頭以来、一貫した傾向である。

もともと社会主義という思想は、人間にとってのユートピアのあり方を考える社会哲学であった。決して政治的なイデオロギーではない。これは、カール・マルクスが直接著した著書を読んでみればすぐわかることである。しかし、産業革命後の19世紀の西欧社会においては、それは容易に政治的イデオロギーに転用できるものであった。そのカギとなるものが、妬みのエネルギーであった。

社会主義は、政治的主張としては悪平等を求める。これはそのモチベーションが「妬み」にあることに由来している。妬みの感情は、「なんでオレだけ」というところから生まれてくる。すなわちアイツもオレも同じはずなのに、という画一性がその思考のベースにある。本来は違いがあるはずなのだが、それを否定し同じであることを強引に主張するのが、「オレにもよこせ」論を正当化するための論拠となっている。

少なくとも、日本の政治活動においては、社会主義・共産主義に立脚する人達は、極めて画一性に基づく悪平等を重視し、個性の多様性や人と人の違いを認めようとしない。これは、その運動のルーツが妬みにあることを示している。本来グローバルな意味での「リベラル」な思想は、多様性を重視し、違いを大事にするはずである。しかし日本の「リベラル」な活動家は、ダイバーシティーと相容れない考えかたをしている。

ある意味思想史的には謎ともいえるこの問題も、日本の社会主義が「妬み文化」に支えられていることを知れば、容易に理解できる。すなわち、これは人間の本性に由来する問題なのである。だからこそ、いかに日本が豊かで安定的な社会になっても、社会インフラが充実しても、「もっとバラ撒け」「もっとよこせ」と叫ぶ人はなくならないのだ。しかしそれは、数的には少数である。ピーチクパーチクほざくのはウルサいが、影響力は小さい。必要以上に耳を傾ける必要はない。ほどほどにあしらっていればいいのだ。


(16/05/06)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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