感情論




米国のオバマ大統領が、伊勢志摩サミットで来日した際に広島を訪問することを発表した。これ自体歴史的な出来事であるのだが、日本ではその意義をまず客観的評価しようということにななぜかなかない。それどころか話はエスカレートし、大統領がその場のスピーチで謝罪の意を示すかどうかの議論になってしまっている。これは、論者のイデオロギーや政治的立場と関係なく出てくる議論である。

太平洋戦争以降、日本で「戦争反対」「核兵器反対」を語るときには、必ずこのような問題がつきまとう。こと、この問題になると、冷静で論理的な議論ができないのが日本人なのだ。いや、あえて冷静な議論を否定し、感情論・精神論だけで押し切ろうとする。感情論・精神論は、実は議論すること自体を否定し、頭ごなしに封印してしまっているに過ぎない。いわば、タブー化である。

この場でもすでに何度も論じているが、日本の核保有に賛成か反対かと、核保有の可能性を議論することは全く別物である。それどころか、もし本当に核保有に反対なら、核保有の可能性のメリットとデメリットを詳細に検討した上で、持つのは「デメリットの方が多い」として保有を否定した方が、よほど論理的だし説得力を持つ。というより、グローバルには、こういうステップを踏まないと議論にさえならない。

「平和憲法」も同じである。本当に無抵抗主義で、一切の戦力を保有すべきではないと考えているなら、運用次第で武力を保有できる現行憲法では不充分であり、どう解釈しても武力の保有が不可能な条文に憲法を改正しなくてはいけない。法治主義とはそう言うものである。しかし、口先で平和主義を掲げる人は、「護憲」とか称して、憲法をアンタッチャブルにしようとする。これも議論を封じようとする「圧力」に他ならない。

議論というのは、自分の感情的立場はいったん封じた上で、相手の論拠、自分の論拠を冷静に比較検討できてはじめて成り立つものである。相手は違う生き物だし、究極的には相容れないものを持っている。だからこそ、論理的に相手の立場を理解し、どこか取りつく島がないか考えることから、共存共栄の可能性が生まれる。これを実現する手段が、グローバルスタンダードの議論なのである。

謝罪を求めることは、第二次世界大戦における連合国の所業を否定することを意味する。それは、20世紀後半以降の国際政治の構造を否定しリセットすることになる。そんなことを、米国の大統領が軽々しく言えるものではない。感情論として謝罪してほしいという気持ちは良くわかるし、理解できる。しかし、それと実際の謝罪とは意味が違う。必要なのは、過去にコダわることではなく、未来を良い形で築いてゆくことではないのか。

太平洋戦争末期のトルーマン大統領の立場、考え方がわかって、なぜそういう政治的決断をしたのかをシミュレートできなくては、議論にならない。立場や考えかたを理解することと、それに賛同したり、受け入れたりすることとは全く異なる。相手の主張に対し、頭ごなしに耳をふさだのでは、議論にならないのだ。感情論だけでアメリカの原爆使用を否定することはできない。そういう人は、ディベートができない。

敢えて「核兵器反対」を主張する人に問いたい。あなた方が実現したいのは、過去のアメリカの核兵器使用に対する謝罪なのか。それとも、核兵器が使われない未来社会なのか。本来の理念なら、後者のはずである。もしそうであるなら、感情論・精神論から脱して、論理的にきちんとした議論が成り立たせないと説得力は持たない。それとも、実は単に太平洋戦争に負けた妬みを今も背負っていて、その恨みを晴らそうとおもっているだけなのか。感情論にとらわれていると、そんな疑念さえ浮かんでしまうのだが。


(16/05/20)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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