舛添都知事が、政治資金の使途から始まり、いろいろな疑惑を追及されてさながら「炎上」中である。まあ、都議会内での利権争いとか、自民党の一部幹部との個人的な怨念とか、その発端はいろいろあるのだろうが、昨今流行りの「有名人叩き」の風潮に乗って、市井の人達まで巻き込んだ大舛添叩き大会が大好評開催中という感じになり、なんとアンケートでは疑惑率99%以上。なんか北朝鮮の選挙の賛成率より高い。

まあ、彼のいかにも悪徳そうな悪びれた風貌によるところもあるのだろうが、やはりこれだけの「人気」を集めるというのには理由がある。一部の人だけが問題視するのではなく、日常的な「茶の間の話題」として叩かれるためには、それなりの構造的な要因がなくてはならない。ある意味、大衆レベルで「足を引っ張りたくなる」何かを彼は持っているのである。だからこそ、ここぞとばかりにみんなが叩きまくるのだ。

それは、彼が高貴な家柄ではなく庶民レベルの貧しい出身であることを売り物にし、偏差値の高さで秀才として成り上がったことを売り物にしていることと関係が深い。実際には、彼の父親は自営の経営者で、父親が病気になってから生活が苦しくなったということらしいが、実態は問題ではない。「庶民レベルの貧しい出身」というストーリーを、自分のアイデンティティーとして取り込んでしまってたところにある、

これはある意味「庶民の味方」という設定がしやすくなるので、選挙では非常に有利になる。特に、バックグラウンドを持たないタレント的な候補者の場合、多くの人が自分の立場を仮託する相手として受け入れやすくなり、爆発的な人気となることも多い。いわば「太閤人気」である。しかしそれは「両刃の剣」である。ひとたび「味方だと思って支持したのに、抜け駆けしやって」と思わせると、支持は一気にアンチに変わる。

まさに「愛憎、相半ばする」というやつである。爆発的な人気は、一瞬にして爆発的な反発に変わる。今回の「事件」など、そのいい例であろう。しかし、それだけでは「炎上」騒ぎにはならない。爆発は、爆発物があって、そこに火が着くことによって引き起こされる。いわば、舛添氏が本質的に「爆発物」だったからこそ、火を着けたら大炎上になったわけである。そして、その「爆発物」たる理由も、やはりこの庶民性ストーリーの中にある。

それは、「偏差値の高さで秀才として成り上がった」点である。秀才、すなわち勉強だけはできるものの、人の徳や人の道を悟ることなく育ってしまった人である。霞が関の高級官僚と同人種なのだ。官僚といえばすぐわかるように、要は人間的に「セコい」のである。ケツが小さいというか、人望がない。実は目先の利権ばかりを追っているが、得意の屁理屈で自分個人のためではなく、世の中のためにやっていると言いくるめる。

役人と同じで、人が見ていないと、陰ですぐ悪いことをやる。だから、叩けばいくらでも埃が出てくる。自分が一番賢いからごまかし切れると思っているようだが、秀才より地アタマのいい人間は、実はたくさんいる。彼らが気付いていないだけ。けっこう裏の悪事が見えている人はいるのだ。だからこそ、ひとたび問題が起こると、次々と芋蔓式に問題が出てくる。ノーパンしゃぶしゃぶ事件や、タクシー券事件など、霞が関を巡る「セコい事件簿」は記憶に新しい。

貧しくとも、本当に清貧な人ならば、世の中を救うであろう。しかし、そういう人は悟っているので、必要以上にしゃしゃり出てきたりしない。貧しい人の中から目立って前に出てくるのは、おいしい思いをしたがっている腹黒い連中ばかりである。だから、秀才はダメなのだ。ある程度以上、ゆとりを持って育った人間でないと、バランス感覚や、公平な意識は持てない。やはりこれも、教育ではなく育ちの問題なのだ。これを正面切って議論できるようにならない限り、こういう器の小さな人間が起こすセコい事件は後を絶たないだろう。


(16/05/27)

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