敵は本能寺




2020年を見据えて、インバウンド3000万人だ4000万人だと威勢のいい話が飛び交っている昨今である。官僚作文の目標値が何万人かなんてのはそもそも問題ではないが、もはや低賃金が売り物の「世界の工場」には戻れない以上、観光立国を目指さないとグローバル経済の中で居場所がなくなってしまうことは確かだし、現実に海外からの観光客が増加していることも事実である。好むと好まざるとに関わらず、インバウンドの拡大は事実として受け入れる必要がある。

そこですでに問題になっているのが、いわゆるアゴアシ、交通機関と宿泊施設のキャパである。官による規制や許認可が厳しく、なかなか本質的な規制緩和に繋がらない。この関係を司る旧運輸省は長らく政策官庁ではなく、許認可利権官庁の権化の一つであった。「橋本行革」国土交通省となったが、その相手の旧建設省もまた許認可利権官庁の権化としては双璧であった。この両者が一体化したのだから、国土交通省もまた鉄壁の許認可利権官庁である。

許認可利権官庁では、許認可の規制・出し渋りこそが、利権を拡大しよりおいしいものとする。こういう体制が長く続くと、その業界の主要プレイヤーもまた利権構造で保護される既得権益保持者となるため、利権構造の中に取り込まれてしまう。確固たる利権構造があれば、新たな競争相手が参入しづらく、市場競争が起きにくいため、経営努力をしなくても過剰な利益を上げ続けることができる。

当然、これらの企業は、既得権をキープしようとする守旧派となる。かくして民間企業が中心の市場構造であっても、沸き起こってくる需要に臨機応変対応することはできず、そのしわ寄せは消費者・生活者に来ることになる。きめ細やかに需要に対応する経営努力を行わない言い訳を転嫁するのが、官庁による許認可なのである。タテマエとしては、安全・安心のためということになっているが、果たしてそうなのであろうか。

官庁による規制が安全・安心に繋がらないのは、これまた許認可利権官庁の権化の一つ、厚生労働省のやっていることをみればよくわかる。食品添加物として使用が許可されている物質は、諸外国より全然多い。確かに許可外の物質の使用に対する規制は強いが、リスト自体が既得権化し、人々の健康や安全を第一に考えたものではなくなっている。その一方で、医薬品については新薬の許可が厳しく、諸外国なら命を救われた人が、そのチャンスを奪われることも多い。

これは、官僚達はアタマの中では、国民や生活者のことを真剣に考えていないからである。「国民のため」は、自分達の利権を正当化する方便でしかない。こんなものに惑わされていてはいけないのだ。昨今交通事業、宿泊事業周辺では、ローコストバスや民泊など、いろいろ新しい動きがでいているが、ことごとく「危険性がある」「誰がリスクを補償するのか」といった議論を持ち出し新しい動きを封じる動きが生まれる。しかしそれは、官僚が判断することではない。

こういうリスクの問題は、市場原理が機能する中で、生活者が自己責任で選択すれば済む問題である。事故で死ぬ危険性が高い。しかし、死んでも自己責任による選択で、そのリスクは織り込み済みであるため、補償はしない。その代り極めて安い。それでも良ければ、納得ずくの上で契約しなさい。それが嫌ならある種保険料込の高い料金を払って、保障付きの業者を選べばいい。それを選択できる幅の広さが、市場原理の魅力でもある。

本質的には、キチンとリスクと価格が明示され、その上で納得して消費者が選択すればいいのである。しかし、問題は消費者の側にもある。真っ当な意味で自己責任を取ろうとしない人達が、歴然と存在しているからだ。こういう連中は、リスクのある安い商品を選んだにもかかわらず、何か事が起こると、保険料込みの高い商品と同等の補償を求めようとする。そして、そのよりどころを官庁による許認可に求めようとするのである。

バラ撒き行政が成り立つ裏には、バラ撒きの分け前に預かりたがる国民が存在している。それと同じで、許認可利権が成り立つ裏にも、許認可によるおいしさの分け前に預かりたがる国民がいるのである。コヤツらは、自分ではリスクを取ろうとしないだけでなく、一旦コトが起こったら、焼け太りを狙うのである。元々失ったものがないのに、保障だけはたんまり貰うまで引き下がらない。

もともと左翼の活動家や市民運動家には、こういう「ゴネ得ゴロ」が多い。失うものがなくせに、貰うものはたんまり貰う。日本がグローバル化し、新たな発展のチャンスを掴まえる上で、一番癌になるのはこういう人達なのである。そう考えると、共産主義者、社会主義者が市場原理を目の敵にする理由はよくわかる。ものごとが「見えざる手」でフェアに動く市場原理では、自分達にとっておいしい思いができないからだ。

一義的には行政改革に対する抵抗勢力は、官僚自身である。しかし、こういう左翼的な「ゴネ得ゴロ」もまた、行政改革に対する強力な抵抗勢力である。一見するとこの両者が表裏一体となって既得権の堅持を目指す構造はわかりにくい。だが、この守旧派の鉄の構造を崩さない限り、改革は成就しない。官僚の社会主義との親和性や、公務員が労働運動の中核を担ってきた事実など、この問題には枚挙のいとまがない。日本の構造的問題はここにある。「敵は本能寺」なのだ。


(16/06/03)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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