法治主義




テレビ朝日のワイドショーが、都議会各会派に「舛添都知事の問題に対する取り組み」をアンケートしていた。その中で「都議会生活者ネットワーク」の回答がふるっている。曰く「法律上は問題ないとしても、私たちは許さない」と。考えてみると、これはある意味「法治主義」に対する明確なアンチテーゼである。個人的にも法治主義が絶対とは思わっていないが、一応現代の日本は法治主義を原則としていることは間違いない。

そういう体制の下で、これだけ明確に法治主義に対して挑戦的な政治集団というのも、なかなか威勢がいい。私はダイバーシティー主義というか、思想信条の多様性を最も尊重する立場なので、法治主義を否定することの良し悪しはさておき、明確な主張を持っていることは評価する。世界的に見ても、21世紀の現代でここまで法律の機能を否定している人達は少なく、なかなか「骨のある」人達ということができるだろう。

法律の運用の部分については、時代や国によって千差万別である。しかし、何かを規定するときにはまず法律を定め、それに当てはめることで事の可否を判断するという「形式」の部分は少なくとも法治主義をとる以上共通している。法律で規定し、法律に従って運営するという形式は、北朝鮮だって一応取っている。それが唯一絶対かはさておいても、現代社会においてはNext to Bestで最善策ということになっているのは間違いない。

一般に刑事法は、「やっていいこと」と「やってはいけないこと」を区別し、やってはいけないことをやった場合に処罰することを規定しているものである。恣意的・感情的に処罰することを回避し、私刑を禁止するのが、近代の法治主義なのだ。もっとも法律の作り方には、「やっていいこと」を規定しそれ以外を「やっていけないこと」と規定するやり方と、「やってはいけないこと」を規定し、それ以外はやっていいと規定するやり方がある。

いずれにしろ、まず法律で決めておき、それに基づく判断でなければ処罰されないのが原則である。つまり法治主義の裏側には、もし既存の法律で対応できない問題が生じたのなら、すぐに法律を改正してその問題にも対応できる法律にしなくてはならない、というもう一つのルールがあるのだ。法治主義を貫徹するためには、頻繁な法律の見直しと、規定のリニューアルを図ることが必須である。

そういう意味では、「解釈改憲」に代表されるように、法律の条文は元々玉虫色にしておきなるべく手を触れないようにし、解釈次第でいかようにも運用できるようにするやり方が横行している日本は、厳格な法治主義ではなく、かなりユルユルであることも確かである。それでも、法律を決めている以上、それを守るのが国民の義務であり、法律が問題に対応できないのは、法律側の問題である。

いつも言っているが、本当に不戦主義・非暴力主義の平和主義者なら、解釈で自衛隊が保持できてしまう現行憲法では不充分であり、もっと厳格な非武装既定を持つ憲法に改正しろと主張すべきなのが、法治主義のやり方である。こう考えていくと、現代日本における「護憲勢力」は、基本的に「反法治主義」であることがよくわかる。なるほど、今回の「舛添にリンチを」的な主張は、いかにもわかりやすい。

しかし議会制民主主義が、立法府である議会の議員を国民が選ぶことで民意を反映させようという政治システムである以上、ある意味、議会制度・議員制度そのものが「法治主義」に基づいている。思想信条の自由を最重視する立場としては、個人や政治団体の主張が「反法治主義」でも一向に構わないが、「法治主義」の申し子である議員や議会会派がこう言う主張をなさるのは、自己撞着ではないかとおもうのだが、いかがなものだろうか。


(16/06/10)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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