愚衆論




別に今に始まった話ではないが、SNSなどインターネットのUGMにおいては、「トンデモ論」が引用・転送されまくって流布している。もともとの論調がエクストリームなものであるだけに、これはかなり目立つ。しかし、目立つだけで必ずしもそれがマジョリティーから支持されているわけではないことは、こういうメディアの事情に通じている人にはわかっている。

「弱い犬ほどよく吠える」ではないが、どちらかというと劣勢な方ほど声が大きくなるし、妙に威勢がよくなるのは世の常である。かくして「反原発」論者の書き込みは、あたかも原発事故が早く起こって欲しいかのようなものとなる。まあそれを含めて、自己責任で語る分には「言論の自由」が貫徹しているのがUGMのいい所ではある。ウルサいなとは思っても、無視してほっておくのがマナーであろう。

自分で何か言いたければ、自分で書けばいいだけである。反論する必要も、批判する必要もない。そもそもインターネットなんていうものはプル型のメディアなので、人々は自分の見たいものしか見ない。わざわざ見に行くものなのだから、嫌なものは見なければそれで済む。twitterでもFacebookでも、嫌な相手の書き込みを見えなくする機能標準装備されている。こういう文句を言う人は、その機能の使いかたを知らないだけであろう。

勘違いしている人が多いが、そもそもインタラクティブメディアはプッシュ力がほとんどないメディアである。この面では、プリントメディアに近い。雑誌は、買って開いて貰わない限りメディアとしての伝達力を持たないのと同じである。だからこそ、ネットビジネスやオンラインゲームは、プッシュ力のあるテレビスポットを利用することが必須なのだ。今やテレビ広告主の筆頭は、インタラクティブ系であることに気付くべきである。

しかし、こういうインタラクティブメディアの「しきたり」を知らず、上から目線のレガシーメディアと同じような視点から、これを批判する人達がいる。曰く、荒唐無稽な論理で人々を騙そうとしていると。しかし、果たしてそうなのだろうか。陰謀論やカルトが、人々を「騙す」という見方は、あまりに人々を見下げている。そして、現代の生活者は決してそんな無知蒙昧な愚衆ではない。

同じように政治家や学識者が良く語る、マスコミに影響されるとか ジャーナリズムが啓蒙していかなくてはいけないという見方も、大衆イコール愚民という視点が基本になっている。だがこれは高度成長期以前の、貧しい産業社会における見方である。豊かな情報社会の現代においてはなりたたない。今の生活者をバカにしてはいけない。彼らは自分達の価値観とリテラシーをキチンと持っている。

マーケティングの視点からは、生活者は自分の価値観を持ちそれに従って行動する人間として捉えられる。たとえそのオピニオンが「ランキング上位のモノを選ぶ」「行列ができている店に行く」というものであっても、それはそれで立派に一つの価値観である。行列に並ぶといっても、貧しくモノが不足していた旧ソ連の人々が、行列があると何か貰えるのかと思って並んでしまうという行動様式とは全く違うモチベーションだ。

結果として「ベタな選択」をしていたとしても、何も考えない結果が「ベタな選択」と、自分の指向として「ベタ」を選ぶのでは、意識の構造は180゜異なる。マーケティングの場合、この対応の違いは、明らかに売れ行きの違いとして顕著に現われる。ここが商品そのものは同じでも、商品を置くだけで売れる「貧しく物が足りない市場」と「豊かで物があふれている市場」での「売り方」の違いである。

自分の意思で「ベタ」を選び抜いて選択している点が重要である。自分がそれが好きで気持ちいいと思って選んでいるからこそ、満足できるのである。ものの所有価値、使用価値では満足できないのである。これはオピニオンにおいても同じである。本人がその論調が好きで気持ちいいと思わない限り、どれだけ大量に露出しても決して支持されない。

現代日本において「上から目線」が受け入れられない理由はここにある。そして、政治家やジャーナリスト、学識者の語る大衆像が現実の生活者から乖離してしまう理由も、古い高度成長期の大衆モデルに拘泥し、いまの生活者の意識や行動をあるがままに捉えようとしないからである。そういう意味では、政治学や社会学においても、マーケティング的な視点を導入して、マーケット・インな発想を取り入れる必要があるといえるだろう。


(16/06/17)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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