ルールを破ることからイノベーションは生まれる




ルールは破るものである。そして、反社会的はスタイリッシュである。80年代ぐらいまでは、世界的にそういう意識が蔓延していた。特に若者文化については、規制のルールへの反抗心こそがアイデンティティーだったといってもいい。アンダーグラウンドカルチャーも、そういう既存の文化へのレジスタンスが主要なモチベーションとなって生みだされ、支持されたものである。

特に高度成長期までは貧しい社会だった日本では、大衆のほとんどが失うもののない「持たざる人達」であった。ルールとは、「持っている人達」がその手にしているものを守るために作るものである。従って多くの人々にとっては、ルールは自分達が守られるための手段ではなかった。これなら、ルールを守ろうというモチベーションが働かないのも当然であるといえるだろう。

この流れが大きく変わったのは、90年代以降である。保守化ともいわれるが、他人により得たものの多寡はあったとしても、多くの人々が高度成長の恩恵により、現状のポジションを獲得し、それを失いたくないと思うようになった。安定成長とは、そのように多くの人が現状維持を望む状態である。失うものが出来てしまった人達は、今度は一転してルールに頼ろうとする。他人に頼るモチベーションは一緒である。

余談であるが、今思われている常識のほとんどは、80年代以降、あるいは90年代以降に形成されたものである。70年代、田中角栄氏が公共事業を政治的なバラ撒き利権とすることにより、政官の利害が一体化した。この時点では、貧弱な社会インフラを整備するという大義名分があった。高度成長が終わって、護送船団方式のような官主導の政策が不必要となると、自分達のレゾンデートルを失った霞が関の官僚が、天下り利権の確保のためにバラ撒きを目的化してしまった。

マスコミの自主規制やコトバ狩りも、実はそんなに昔からあった「伝統」ではなく、80年代以降に顕著になったものである。マスコミのプレゼンスも、民主主義というか大衆の支持があってこそのものなので、大衆が守りに入った以上、マスコミもかつてのように先鋭的・攻撃的ではいられない。社会から遊離した独善になってしまうからだ。それでは、視聴者や読者がついてこない。売れないし、視聴率も上がらない。

そもそも、高度成長期までは喧嘩をぶちかまして相手から奪うというのが、当たり前の行動様式だった。喧嘩に負けたところで失うものがない。その一方で相手から何か奪えれば丸儲けである。だからこそ、「奪い勝ち」なのである。それなら先手必勝とばかり、先に喧嘩を売った方が得である。だから、ちょっと弱そうな相手と出会うと喧嘩を売る。かくして、街中は喧嘩にあふれていて、歌舞伎町とか繁華街は常に緊迫感が漂っていた。それがなつかしいという人も、50代以上には多いだろう。

昨今、70歳以上の爺さんがキレたり暴力をふるったりする事件が続出している。これは、この世代が「喧嘩の時代」に育ったので、そういう行動様式が刷り込まれているからだ。現役で仕事をしている間は、金のために暴力をふるうのは押さえていたのだろうが、年を取ってボケてくると、我慢できなくなって地が出てきてしまう。今の70以上の老人は、終戦後の腕力がものをいう時代に育った。だからこそ凶暴な爺さんが多いのだ。

そういう意味では、物心ついた時から豊かな社会だった今30代以下の若者の方が、よりルールに従順になり、ルールに頼ろうとするのもうなづける。それはとりもなおさず、自分の腕力一つで世界を敵に回しても世の中を渡って行こうという意気込みを失っていることを意味する。社会というか、多数の名の元に庇護されていないと、生きていけないし、自分の居場所を見つけキープすることができない。

聞くところによると、最近の大学キャンパスは、非常にマジメな雰囲気で、みんなキチンと授業に出て、熱心に勉強しているという。まあ、大学全入時代になったので、大学生であることが社会的特権となり、モラトリアム期間として好き勝手なことにトライしチャレンジできた時代とは打って変ってしまったのだろう。あの70年代に10代を過ごした者からすると信じられないが、そういう世の中なのである。平和ということでは、いいかもしれない。

だがそれでは進歩は起きない。過去を否定し、暴力的に打ち破るところからイノベーションは生まれる。ルールに頼り守ってもらうのではなく、自分のやりたいことを信じて、ルールの方をぶち壊していこうというエネルギーが元になって変革が起こるのだ。これなくしては、人類の進歩も、飛躍的なイノベーションも何も生まれない。多分、少数だが、そういう若者もいる。そいつらが、勝手気ままにできるようになればいい。改革者は、常に少数なのだ。

幸いなことに、失うものが恐い若者は、内向きになるが余り、外に飛び出してゆこうというものに対しては、あまり気を使わない。自分たちのコミュティーの内部で和を乱す者については妙にコンシャスではあるものの、外側のことには無関心なのだ。かえって、やる気のある若者はやりたいようにできる環境は整ってきているのかもしれない。それを、妙に物知り顔で良識派ぶるインテリの年寄りが足を引っ張らないようにすればいいだけである。


(16/06/24)

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