民主主義とは何か




6月23日に行われたEU離脱か残留かを問う英国の国民投票は、離脱が52%に対し残留が48%という結果となり、過半数の支持によりEU離脱を決めた。この数字の開きは、統計的に見てももはや誤差ではなく、離脱支持派と残留支持派の数に有意な差があることを示している。この結果、金融市場は株安とポンド・ユーロ安の混乱に見舞われるとともに、キャメロン首相が辞意を表明するなど政界にも大きな影響を与えている。

これに対し、ジャーナリズムや政治・経済の評論家、学識者などの見解は、押しなべて厳しいものがある。曰く「ポピュリズムである」とか、「過去の栄光にすがっている」とか、「低所得・低学歴の労働者階級による感情的判断」とか。まあ、インテリ層、特にリベラルなインテリ層の見解というのは、押しなべて自分中心の上から目線になりがちというのは、ここでもすでに何度も論じてきたテーマではあるが、どうやら英国や欧州でもその傾向は変わらないようだ。

その論者の個人的立場は論者の数だけあっていいし、思想信条の自由は極めて重要なので、個人的立場の主張をすることはその理屈を他人に押し付けない限りにおいては、全く以て自由であるし保障されるべきである。だが、それは「意見」であって現実ではない。自分の意見を主張する上では、この差を理解することが重要である。もともと「意見」は、現実から乖離したヴィジョナリーなものでも構わないからである。

現実のリアルな姿をきちんと捉えることなく自分の意見を主張するのは、「if」の部分まで作り込んだフィクションの歴史小説を、あたかも歴史上のファクトとして発表するようなものである。歴史小説としては面白く意味がある表現も、創作の部分は歴史学で論じる対象ではない。それと同じことである。ましてや自分の意見こそ正しい姿で、現実の方が間違っているなどと主張するのは、そもそも本末転倒である。

英国民の過半数は、間違いなく離脱を支持している。これを事実として捉え、その事実をベースにして今後どうするべきか、どうあるべきかを論じなくては政治や経済の問題としては意味がない。それを考えるのが「政策」である。もしそれができないのであれば、今までの「民主主義」とはいったい何だったのかが、改めて問われるべきである。政治エリートは大衆を愚衆視し、ウマく騙して票さえ確保すれば、自分達のやりたい政策ができるとでも考えていたのか。

まあ、そこまで悪意を持って捉えずとも、少なくとも今までの民主主義政体は、完全市場になっていなかったということは間違いない。完全に競争原理が貫徹し、神の見えざる手が常に働くことで、人々の意見が市場競争の結果として自動的に実現する。議会制民主主義というシステムを取る限り、神の見えざる手は機能しないことを、今回の結果を見る限り図らずも国民投票の結果が証明してしまったとさえいえる。

どうやら既存の権力者達は、想定外の結果に慌てふためき、冷静な政策判断ができなくなっているのだろう。離脱を前提としても、取るべき政策や経済施策はいろいろな選択肢がある。次はその中からどうするかを議論することこそ重要なのだが、なぜかそこにはいっていこうとしない。これもある意味、産業社会に最適化してきた政治のあり方が、高度情報社会化した先進国の社会のニーズにマッチしなくなったことの表れであろう。

欧州が世界のリーダーシップを取るようになった16世紀以来、社会や経済の新しい構造は、常に英国から登場してきた。そういう意味では後世の歴史家からみれば、今回の国民投票もポスト産業社会の人類社会の構造を考え作り出すきっかけとして位置づけられるのであろう。「民主主義」は産業社会の時代に最適化した政治システムであった。100年後の政治学のテキストには、きっとそう書かれることであろう。そういう発想こそ、今求められているし、それなくしては現状を打破できないのだ。


(16/07/01)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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