改めて義務と権利を考える




他人と共同生活を送らなくてはいけない社会生活で、一番大切なことはなんであろうか。それは「自分が他人からされたくないことは、他人に対してやらない」という、自重互恵の精神である。これは社会的生物である人間にとっては、基本中の基本ということができる。法律や倫理で難しく行動を縛らずとも、相互主義で相手の立場になって考えることさえできれば、世の中は平和で丸く収まるのだ。

それを権利と義務の関係に当てはめると、「他人のことを考える」ために生まれた「義務」を果たさずして、「自分を主張する」行為としての「権利」は主張できないということになる。社会的に課されている義務を果たしていれば、権利を手に入れるための「バウチャー」を、他の人々すべてから与えられるし、それを行使できる。社会生活における「権利」とはそう言う性質のものである。

ところが相変わらず義務を果たさずに権利ばかり主張する人はあとを絶たない。もちろん一人で無人島で生きているのなら、権利という問題は生じない。だが、権利ばかり主張する人はそうではない。それどころか、他人から何かして欲しがるという意味で、権利を主張している。他人とのインタラクションがあるからこそ、その関係性において一定の権利が担保される。権利を主張するだけでは、一方的に相手に迷惑がかかるだけである。

人間関係・社会関係の中では、相互関係を大事にするのを前提として、権利を互いに認めあっているのであるし、それにより権利が担保されているのだ。相互関係を大事にするために生まれたものが、義務である。だからこそ、権利は義務を果たしてはじめて認められる。しかしどうやら「権利」ばかり主張する人達は、そもそも他人の存在が意識の中にないし、ましてや他人の気持ちを慮るなどということは思いもしないのであろう。

権利という意味では、人権とて例外ではない。自分の基本的人権を声高に主張する人は、その主張がともすると他人の基本的人権を侵してしまう危険性に心が及ばない。自分達「だけ」が正しくて、他の考え方は間違っていると言わんばかりである。思想信条の自由は最も大事なことである。しかし、それは他人に自分の意見を押しつける自由ではない。その逆の、多様性を受け入れ、認め合うことなのである。ここもはき違えている人が多い。

人から貰うことしか考えていない人達も同じである。自分が弱者である、不幸であると主張するのは自由だが、だから他人から「してもらう」のが当たり前ということにはならない。セーフネットというのは、自助努力をしているにも関わらず、いろいろな事情でその成果がすぐに得られていない人達に対し、ある意味「つなぎ」としてその生活基盤を支えるものである。義務と権利と同じで、これもまら努力をしていることが前提である。

しかし、人間は怠惰な生き物である。せびれば貰えることがわかってくると、自助努力をせず、最初から貰うことを前提に生きるようになる。世の中が貧しい間は、命を繋ぐために何らかの努力をしなくてはならないので、なかなかここまで他人への物乞いだけで乗り切ろうという発想にならないが、そこそこ世の中が豊かになってくると、最低限の努力が要らなくなる分、逆に努力そのものから逃避してしまう人が増えてくる。

また、周りに豊かな人が増えてくることで、妬みの精神も強くなってくる。この妬みの精神は同時に、「自分は恵まれていないんだから、他人から貰う権利がある」という歪んだロジックを生み出し、自助努力せずに貰うものだけは何でも貰う生き方を肯定するための屁理屈を正当化することになる。これからわかることは、彼らは最初から自助努力をしないし、「やる気」がない人達であるということである。

こうやって見てゆくと、実態がよくわかる。権利ばかり主張する人達は、自分達のことしか考えていない、極めて独善的な集団なのである。自分達だけが良ければ、他の人達のことなど視野の外側。もっというと、自分達さえいい思いができれば、社会全体がどうなろうと一向に構わない人達なのである。昔も革新政党、社会主義者、リベラル派などは、みんなこういう自分達だけ良ければいいという、原理主義的独善主義者なのである。

野党がセクショナリズムに嵌って、小政党乱立になるのも、左翼がすぐセクト間で内ゲバを始めるのも、結局はこの「自分達さえよければ、社会全体などどうなってもいい」という発想があるからである。折しも選挙期間中である。まだまだ彼らは権利ばかりを主張している。まあ、こういう荒唐無稽な主張に騙される人も減ったとは思うが、有権者はこういうところにこそきちんとした判断をすべきなのだ。


(16/07/08)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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