サヨクの限界




冷戦の終結とともに、産業革命以来の政治イデオロギーとしての「社会主義」や「共産主義」もその存在意義を失ったというのは、政治に関してマトモな理解力を持った人なら、その時点でリアルタイムに理解したことである。そして鉄のカーテンの向こう側の「東ヨーロッパ」を見て「共産主義的な特徴」と思っていたことは、何のことはない「スラブ的特徴」だったことも、はっきりと見えてきた。

もっとも、だからといって哲学やユートピア論としての「共産主義」の歴史的役割が失われたわけではない。アカデミックに人類の理想とは何かを考える上では、19世紀の社会を前提にカール・マルクスの語ったことは、これからも意味を持ち続けるだろう。そもそも、マルクスは哲学者でありビジョナリストではあるものの、政治学者でも経済学者でもない。彼は人類社会の理想像を説いただけである。

それを、政治的プロパガンダにしてしまったのは、エンゲルスである。「資本論」はマルクスの著書ではない。マルクスの残した論文を、エンゲルスが換骨奪胎したものだ。そして、世間に流布したのはエンゲルスが政治的意図から改変した「マルクス主義」である。そういう意味では、冷戦終結とともにその命脈を絶たれたのは、エンゲルス以降の近代産業社会にに特化した政治的なプロパガンダということになる。

哲学者が、学問としてマルクスの理論を研究することは、カントやヘーゲルの理論を研究するのと同じ文脈で、今でも意味があるだろう。しかし、そのバックグラウンドである近代産業社会が過去のものとなった今では、政治運動の理論的支柱としては、全く妥当性を失っている。だが、この構造がわかっている人が、今のサヨクやリベラルにどれだけいるのだろうか。ここに問題が集約されている。

少なくとも昔の貧しい時代の社会主義運動の活動家は、自分が救われたりいい思いをしたいからではなく、人類を救うために運動をしていた。この限りにおいては、政治的な意図を飛び越えて、ビジョナリストとしてのマルクスの思想と共鳴し得るものを持っていた。共産主義という政治的な理屈付けも、あくまで自らの活動を正当化するための手段であり、政治自体が目的ではなかった。

この時代の活動家は「理念に燃えていた」分、自分はいい思いをできなくても、未来の人類がより幸せになるために、自らの生涯を捧げる意気込みがあった。だからこそ、多くの人々が支持してついてきた。同様に、その活動は自分のためのものではない極めて利他的なモチベーションから沸き起こっていたため、活動家個人が道半ばで倒れたとしても、その遺志は同じ志を持つ別の活動家に受け継がれ、運動が続くことになる。

ところが、今のサヨクやリベラルの活動家はどうだろうか。自分がいい思いをする、自分がバラ撒きのおすそ分けに預かる。それがモチベーションであり、その意図をカモフラージュするためにカビの生えた「社会主義」「共産主義」の主張を引用しているだけである。 極めて利己主義的なものに変質してしまった。これでは、単なる「バラ撒き行政」の受け皿に他ならない。

もちろん社会主義運動には、昔から利己的な要素があったことも否定し切れないだろう。しかし大きな目標が第一であり、それがはっきりしていたからこそ支持があり、社会的な正当性が担保されたことは忘れてはならない。今どきのサヨクやリベラルの活動家で、「経済学・哲学草稿」を読んだことがある人間がどれだけいるのだろうか。というより、こういう話自体を理解できる人がどれだけいるのだろうか。

この7月の参議院選挙から都知事選挙の流れで、サヨクやリベラルの化けの皮が完全に剥れた。彼らの得意な「反対のための反対」がまったく意味を持たなくなった。世の中の対立軸はイデオロギーではなく、「バラ撒きの大きな政府」か「自立自己責任の小さな政府」かだけであることが誰の目にもはっきりしてきた。これはいいことである。この軸で、日本の未来をキチンと議論し合える環境ができれば、最もよいことなのだが。


(16/07/22)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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