リーダーの資質





前回分析したように、21世紀の日本においては、サヨクは政治的な存在意義が全くなくなってしまった。しかし、リベラル派、人権派、社会派の存在意義がすべてなくなったというわけではない。いろいろな人達が世の中にいるんだ、という事実を広く告発する機能としてはまだまだ役割はある。それはまた、多様性を認めダイバーシティーを重視する社会を作るためにも、必要だいうことができるだろう。

だが、それは地道でひたむきな役割である。介護ではないが、困っている人達に彼らの生活の平面で寄り添うからこそ意味がある。これは、政治ではない。政治が果たす役割でもない。ましてや、政治的リーダーがそういう人達の中から出てくるということはあり得ない。市民運動家がリーダーになれないことは、民主党政権の菅直人首相が身を持って立証したところである。それは、個人の資質でもあるが、リベラルの限界でもある。

80年代以降、日本が安定成長の社会になってからは、求められるリーダーのあり方が変化した。高度成長の頃は、追い風にさえ乗っていれば大体のことはなんとかなったので、「お猿の電車」ではないが、そこに座ってさえいれば何もしなくても「リーダーでござい」という顔ができた。このイージーなノリは、大衆社会化の進展や「日本的雇用慣行」ともマッチし、本来リーダーが持つべき資質についての認識が極めて低くなった。

リーダーシップとは、ノブリス・オブリジェや、自ら腹をくくって責任を取る姿勢から生まれてくる。その自ら範を示す姿から、おのずと人がつき従ってくるのがリーダーシップである。政治とは突き詰めれば、ある意味社会的リーダーシップをどう示すかということになる。政治家こそ、ノブリス・オブリジェとストイックな自己責任が求められる存在である。もっとも、この事実自体が高度成長期以降忘れられてしまっているのだが。

真の政治的リーダーは、直接支持者に何かをしてあげるというわけではない。ましてや、バラ撒きの利権で釣るなどというのは論外である。だから、リベラル派、人権派、社会派、市民派にはリーダーの資格はない。彼らには戦略的、長期的視点がなく、反対のための反対で威勢のいいことをいい、目先の甘言で不満分子のご機嫌を取るだけである。その主義主張を見れば、リーダーとは程遠いことは良くわかる。

バラ撒きでご機嫌を取るのはある種の戦術論と言えないこともないが、その財源自体が他人頼りになってしまったのでは、リーダーとは言えない。左翼政党が良く主張するのは、大企業の法人税を上げて財源にするという「理論」である。しかし、そんなことをすれば企業は経営基盤を一段と海外に移さざるを得ない。そうなれば、今以上に日本経済は低迷し、結果的に税収は減ることになる。

ある程度経済のことがわかる人なら、こんな他人頼りの「絵に描いた餅」の政策は、単なる子供騙しのリップサービスに過ぎないことはすぐ見破れる。バラ撒きをするのであれば、それ自体完結した新たな財源を創り出さなくてはならないはずだ。それはたとえば増税ではなく、寄付の振興策と合わせた大幅な減税を行い、政府がバラ撒くのではなく、寄付という形で民間がバラ撒くようにスキームの転換を行う政策である。

これなら、結果的にバラ撒きに寄生し、その一部を自らの天下りの利権として横取りしてしまう公益法人を大幅に削減できるし、そこに巣食う官僚たちも削減できることになる。バラ撒かれる金額は同じでも、官僚たちの利権になっているオーバーヘッド分(実際にバラ撒かれている金額とほぼ同じぐらい金額を、官僚が横取りしている)は確実に削減できるので、結果的には経済活性化にもつながることになる。

人々が嫌がることであっても、必要なことは、説得してもやらせられるのが政治的リーダーシップである。増税や緊縮予算を伴う財政改革や、人員削減を伴う行政改革は、まさにリーダーシップがなくては成し遂げれない。ここが、官僚と政治家が決定的に異なる点である。サヨクが政治的役割を終えた今こそ、バラ撒きで顔色をうかがう政治から脱し、真のリーダーシップを確立する絶好のチャンスであるといえるだろう。


(16/07/29)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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