民主主義は反ダイバーシティー




結果的に革新・リベラル・サヨクが今の日本社会では時代遅れの無用の長物であることを誰の目にも明らかにするだけで終わってしまったが、東京都知事選挙における「野党連合」という泥縄の「野合」はこれからも鮮明に記憶に残るだろう。政治にはどうしても野合がつきものである。勢いのあるものにぶる下がろうとしたり、なるべく一くくりになろうとしたがるのか。それは民主主義の政治が「数の論理」で動くため、政治を行う者にとっては何より「数」が欲しいからだ。

こういう視点から見ると、民主主義とは、結果的に全体のパイが最大になり、それなりに分け前にもあずかれるだろうから、「小異を捨てて大同につけ」というシステムであるということができる。本質はここである。どんなに美辞麗句を並べたり、理論的にその合理性をこじつけたとしても、この本質は変わらない。ある意味、どんな人間にとっても「我慢」を強いることになるのが、民主主義の特徴でもある。

だがそれは、貧しい時代だから通用したやり方だ。社会全体の資源や資金が限られている時代においては、あれもこれもと実現することはできない。プライオリティーを付けて、限られたリソースを有効に利用しなくては「虻蜂取らず」になってしまう。かつて日本が貧しかったころ、戦後の復興のために限られた国家予算を効率的に使うべく、「傾斜生産方式」が取られたが、まさにこれがその典型である。いわば「貧者の起死回生戦略」なのだ。

これを政治のレベルで合理的に実現する手法が、議会制民主主義である。限られたリソースを投入すべきところはどこなのか。まさに「選択と集中」をしなくては、何の効果も生まない「スズメの涙」を気持ちとしてバラ撒く以上のことはできない。このためのプライオリティー付けを、「数」という指標を元に行うためには、民主主義は優れて合理的な手法である。だが、この前提を見失いがちである。

民主主義というシステムは、それが生み出された経緯からして、本質的にこういう構造的問題をビルトインしている。それは「民主主義」を社会の基本ルールとして取り入れる以上、避けがたいことなのである。しかし、貧しい産業社会を脱し、豊かな情報社会になると、状況は変わってくる。社会的なリソースが充分ある上に、社会的なインフラへの投資もすでに充分行われている。

こういう環境になると、あえて「傾斜配分方式」を取らなくても、多様なニーズを同時並行的に満たすことができる配分が可能になる。21世紀になり、多くの先進国が「豊かな情報社会」へと移行するとともに、ダイバーシティーの問題が重要な課題となってきたのは理由がないことではないのだ。ダイバーシティーは、脱産業社会の課題の一つなのだ。「民主主義」は、本質的にダイバーシティーとは相容れないことを知るべきだ。

一つにまとめる発想を取る限り、ダイバーシティーな社会を実現することはできない。しかし、民主主義というのは、数の論理により一つにまとめるところに特徴がある。もともと多様なものを一つにまとめるということは、誰一人として完全に満足することはできないことを意味している。民主主義がその裏側に「結論は一つ」という方向性を持っている以上、一見全体最適が実現できるように見えても、構成員の満足感の極大化は実現できないことになる。

ある意味、「民主主義に基づく政治」は計画経済のようなものである。まさに「傾斜生産方式」が社会主義的政策と呼ばれるように、「神の見えざる手」に任せるのではなく、人為的に集中させて社会をコントロールしようという発想がそのベースにある。市場原理に任せれば、多数が集中する「ショートヘッド」が生まれる一方、一つ一つの規模は小さいが多様な「ロングテール」が多数生まれる。ダイバーシティーとは、政策的にはこの「ロングテール」をあるがまま大切にすることを意味する。

情報社会では、数の論理はいらない。ビッグデータといわれるように、蓄積されたデータに基づくシミュレーションにより、全体最適を実現することができるからだ。情報社会においては、市場原理の追求こそ、多様性を開花させ、ダイバーシティーを実現することになる。ダイバーシティーとは、弱者面して新たなバラ撒きを求めることではない。サヨクがそういうことをやっていたから誤解を招いた。サヨクの命脈が断たれた今こそ、真のダイバーシティーを市場原理を元に実現すべき時がやってきたといえる。


(16/08/12)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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