反対勢力




共産党のスローガンで「アベ政治を許さない」というのがあった。仮想敵を作ることで、自分達の存在感を出そうとしたのであろうが、今でもその残骸が街中のいろいろなところに貼られていて、ある種シュールなむなしささえ感じさせる。もちろん、思想信条の自由があるし、価値観の多様性は最も重要なことと思っているので、現政権の政策やその結果に対しては、賛成も反対もいろいろな意見があっていいし、それを主張することも自由であるべきである。

思想信条の自由、言論の自由を重視するとは、自分の意見を主張するだけでなく、自分と異なる意見の持ち主であっても、その意見を自分に対して押し付けてこない限り、その存在を認め、一定の距離を置きあって共存を目指すことである。その前提となるのが、自分の立ち位置を知ることである。どちらかだけが正しいという二元論は、一つの椅子を奪い合うものであるが、多様性とは互いの相対的な関係性を知ることから始まるからだ。

現政権に対しては、どんな世論調査を行っても過半数の人間が支持しているのが現状である。まずここをキッチリ理解できているならば、「安倍政権にNo」をいうことは、その時点で少数派の意見代表となることを意味する。もちろん、少数派がきっちり自分の意見を主張することは重要なので、その限りにおいては、どんどん「No」を言うべきであろう。しかし、この意見はあくまでも少数派、構造的にロングテールのものである。

そうである以上、このような意見は決して多数派とはなり得ず、現政権に変わって政権を奪取しようという責任ある勢力の意見としてはふさわしくない。自らもマジョリティーを目指すならば、現政権が支持されている理由については肯定的に継承した上で、自分達ならそれ以外の点に関して、このように改善し、よりよい政策を実現すると主張する必要がある。それができてはじめて、政権交代が可能になる。

現政権に対する支持理由で一番大きいのは、経済政策である。それなら、ひとまず経済政策は継承した上で強化することを主張しなくては、支持されるわけがない。これが、責任政党たる所以である。かつて政権交代を実現した新進党や小沢一郎氏合流直後の民主党は、少なくともここのところをきちんと踏まえていた。その上で違いをアピールしてどちらを選ぶかという選択に持ち込んだからこそ、政権政党が交代できたのである。

多数派の意見と明らかに違うマイノリティーの主張が、多数派を切り崩して支持を得られるわけがない。多数派の意見は、政党や政治家が提示して、それに賛同して生まれるものではない。人々の心の中に先に「時代感覚」があり、それにフィットしているから選ばれている。「ドブ板選挙」のできる政治家は、ある意味上から目線で政策を考えるのではなく、握手をし話を聞く中からこの有権者の「時代感覚」を把握することに長けている人なのだ。

すでに何度も論じているが、豊かな情報社会となった現代の日本では、貧しい産業社会の時代とは異なり、多様な存在を認めうるインフラとリソースが存在している。二元論に勝ち残らない限り、自分達の存在自体が危ぶまれる「椅子取りゲーム社会」ではない。このような状況下では、自分達の存在を正当化する理論としての「イデオロギー」は存在意義がない。逆にイデオロギーは、既得権益を肯定するための屁理屈としてしか機能していない。

そういう意味では、既得権益の代弁者としての「サヨク・リベラル」を代表する「革新政党」や「労働組合」は、カビの生えたイデオロギーを屁理屈として引っ張り出すのではなく、もっとストレートに自分達の立場を主張すればいいのである。それは簡単。55年体制下で確立した「左翼勢力」の持つ既得権益の、維持・擁護・拡大である。それはそれで立派な主張である。正々堂々と主張すべきである。それがどのくらい支持されるかはさておき。

40年体制の官僚権益の裏側で、官僚制自体が持っていた社会主義的性格に乗じて、「左翼勢力」がバラ撒き行政の受け皿として表裏一体の権益を築いたのが、55年体制の本質である。対立するように見えても、結局はゴネ得狙い。この「対立」とは、当時創世記のテレビ放送で一世を風靡していたプロレスにおける、「日本人組対外人組」のようなものである。その本質は、高度成長期の1960年代、70年代から、既成左翼に対する疑問がすでに出されていたことが示している。

結局、論点はそこなのだ。「既得権益重視、バラ撒き、大きな政府」を良しとするのか、「改革、市場原理、小さな政府」を良しとするのか。前者を求める「旧左翼と官僚およびその利権の享受者である旧来の圧力団体」が一方の極。後者を求める「自立・自己責任な人達」がもう一つの極。本当にやる気のあるマイノリティーは、後者を支持するはずである。差別をなくするということは、こと日本社会においては、既得権益をなくすることと同値だからだ。

実は十数年前から、日本社会の論点はここにある。だが、既得権益はあまりに大きく、あまりに深くはびこっていた。それと同時に、今まではまだまだバラ撒きのムダを許す経済的余裕があった。しかし、今やそれも絶体絶命。誰の目にも最終決戦が近づいてきている。時間がたてばたつほど、かつての高度成長を知らない人が多くなる。それと同時に、過去の栄光にひたっていた人も、それがもはや続かない夢であることに気がつく。さあ、そろそろ第二戦の幕が切って落とされるか。いや、もう切って落とされたのかもしれない。


(16/08/19)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる