造反有理




相変わらず世界的にテロ事件は多い。それらの多くは、一応政治的あるいは宗教的な過激派により引き起こされたという形になっている。確かに9.11など、今世紀初め頃の初期のテロは、その政治的主張をアピールして押し通し、人々に恐怖を与えることで、自分達の勢力の存在感や発言力を強めるという狙いが色濃く反映されていた。その意味では、確かに既存の国家と非正規勢力との武力衝突という側面が強かった。

しかし最近のテロを見ていると、何かが変わってきているのを感じる。後付けで、ゲリラ的な軍事勢力や過激派テロ集団が、「自分達の犯行」であると声明を出しているのは確かだが、事件そのものとのつながりがそれほどはっきりと感じられないのである。はっきり言って、どう見てもその根底にあるのは政治的・イデオロギー的な動機ではないという感じが伝わってくるのである。

そこに見られるのは、もっと個人的な動機である。現状への不満やストレスが蓄積し、限度を超えてしまったためにそれを解消したい。それには、破壊衝動が一番手っ取り早い。かくして、暴力で破壊衝動を爆発させる。あるいは厭世感にさいなまれて自殺したいが、ひっそりと犬死するのはイヤだ。死ぬなら、華々しく死にたい。世の中をアッと言わせて死にたい。かくして暴力的に多くの人間を道連れにして自殺を図る。

「個人的な動機付けから、結果としてテロ行為を起こしてしまう」という経過をたどった犯行が余りに多い。いい悪いはさておき、こういう衝動は人類の歴史と共に「若者の常」であった。それは古典から文学作品を読み解けば、容易に理解できる。そこで見えてくるのは、こういう衝動を実行するために必要になるのが「理屈」であるということだ。「理屈」が付けば、テロ行為は正当化される。これを「個人テロ」と名付けよう。個人テロへの対応は、政治テロや宗教テロとは異なる。

テロの総本家といえるISISのテロも、最近ではその領域にきている。欧州では、ホームグロウンのテロリストによる犯行が増えているが、彼らは過激派宗教組織から武器や資金の支援を受けているかもしれないが、原理主義的な宗教意識や動機付けは感じられない。1960年代末から1970年代初めの、新左翼「過激派」の末期もそれに近い。彼らはマルキストでも社会主義者でもなんでもなく、単に暴力で破壊衝動を解消したいというだけの連中だ。それが「理屈」として左翼の理論を借りただけに過ぎない。

中国でかつて「文化大革命」という運動があり、「紅衛兵」と呼ばれた若者が、暴力的な破壊活動をした。その際に唱えられたお題目が「造反有理」である。意訳すれば、「理屈が付けば、破壊活動は正当化される」というようなことだ。これも、破壊衝動が先にあり、それを正当化するために「理論」が持ち出された典型例である。暴力はこの上なく気持ちいいのである。そして暴力の先に自分自身の存在も破壊してしまう自殺願望は、至上の快感を伴う。

もちろん、周りからすればいい迷惑ではあるが、当人にとってはエクスタシーの極致でそのまま死ねるのだから、こんなに気持ちのいいことはない。そして、若者はこういう状況に憧れ、それを目指したくなるものなのだ。それは、現状への不満とストレスが引き金となる。逆に言えば、ほどほどの暴力に浸れる環境にあるなら、それは不満とストレスへのガス抜きとなり、結果として安全弁として働くことになる。

暴力はため込んで爆発するから危険なのであり、ティーンエージャーとかの間は、ある程度管理された暴力は認めて、ガンガンやり合うべきなのだ。喧嘩して罵倒し合って、互いに痛い目に合えばいい。殴り合って、相手を投げ飛ばせばいい。腕力のないヤツは、口汚くののしって、相手のプライドをへし折ればいい。その中から自ら社会の掟や自分の居場所を発見し学び取ることも多い。いや、知識として学ぶより、よほど身に付いたものになるはずである。

80年代以降、豊かで安定的な社会になってからの若者は、今あるものを失うことを極度に恐れるようになった。その結果、社会が押しつけたというより、自ら好んで無菌培養的な「痛みのない」社会構造を求めるようになった。その結果として、一部のストレスをため込み過ぎた人間がそれを暴発させる、個人テロの横行を生んだ。それを防ぐ手立てはただ一つ、管理された暴力をふるえるような「理屈」を作ってやることだ。まさに「造反有理」の復活である。毒を持ってしか、毒は制せないのだ。


(16/08/26)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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