情報化社会における真の「弱者」




世の中の情報化が進むとともに、20世紀の産業社会とはことなる社会スキームが世の中の理となりつつある。ここでもすでに何度か論じているが、その中でも民主主義の基本である「数の論理」の変化は特に大きな影響を多方面に与えている。かつて「多数」は、アクティブに自らの正義性・正当性を担保するものとして捉えられていた。しかし、今や「多数」とは、パッシブにその陰に隠れることにより自らの匿名性を担保するものとなっている。

今では多数派を選ぶということは、すなわち「多数に紛れる」ことを意味する。「自分」を持っていない人や、勉強した知識や他人の真似でしか自分の意思を決定できない人は、行動において「自己責任」を突きつけられる情報化社会の中では極めて生き辛い。多数の中に紛れていたい人達に自分らしさを求めるのはかわいそうだし、自分らしさを強調する環境はプレッシャーになる。彼らの最後の砦が「多数の壁」に隠れることなのである。

人工知能が普及してくると、努力や勉強でクリアできることは、人間より人工知能の方がよほど手早くローコストでこなしてくれるようになる。コツコツ努力して人真似をするしかない人にとって、これからの世の中はますます世知辛く生きにくいものとなるのは間違いない。そして、世の中にはそういう人の方が多いのである。そうであるとするならば、これからますますこの問題は顕在化し、何らかの手を打つことが必要になる。

昨今は、医者や弁護士といった士業も、一部の高所得者層と多数のうだつが上がらない層とに二分化している。弁護士を例に取れば、法律のスキ間を活用したビジネスモデル等を立案し提案できるコンサルタント的発想ができる人は、企業と顧問弁護士として高額での契約が可能である。しかし「歩く六法全書」では、平均的なサラリーマンと収入は変わらない。そして、「歩く六法全書」さんのコストよりは、「AI六法全書」のコストの方が、格段に安いのである。

市場原理を重視し「自己責任」による行動を良しとする人達は、多様性を重視するはずである。市場原理と自己責任の必然的な産物が、多様性の象徴である「ロングテール」だからだ。多様性を重視するなら、いろいろな主張を尊重し合うことはもちろん、自分の意思や意見を持てない人の存在も尊重する必要がある。主張する意見がない、主張する意見を自分で持てないという人も、同じく「人権」が認められるべきだからだ。

すなわち形式としての「伝統」や「みんな」にすがる人こそ、真の弱者である。なんせ、自分の力で、一人で生きていくことができず、誰かに頼らなくては自分の居場所すら作れない人達なのだ。自分で頑張れ、自助努力で頑張れ、自己責任で頑張れと言ったところで、足が不自由な人に「もっと力強く走れ」と根性論をブツようなものである。こういう人達こそ、大切に保護してあげないとかわいそうだし、それは社会的責任でもある。

しかし、だからといって過剰な保護をする必要はない。それは甘えを増長させ、もっとよこせもっとよこせの大合唱を招き、社会的な負担をいたずらに増加させるだけである。彼らが必要とするのは、甘え合える環境であり、決してバラ撒きではない。「弱者」である「多数に紛れていたい個性のない人」達が、肩を寄せ合い傷を舐め合っていればそれなりに生きがいを見つけられる場があればいい。

「甘え・無責任」な人に、「自立・自己責任」を要求するのは酷である。それは、物理的に無理なことであり、自立の価値観を強要することは価値観の多様性に反するだけではなく、差別であるともいえる。自分の力で生きてゆける人は、傷を舐め合わなければ生きてゆけない人達のことは、無視して放置しておけばいいのである。それと同時に、「弱者」の人達も自分達が傷を舐め合えられる限り、「強者」が何をやろうと他人事として放っておけばいいのだ。

これが共存共栄であり、真の意味での価値観の多様性の実現である。ダイバーシティーの実現には、互いに他人に干渉しないことがその基本となる。他人に行動を強要したり、他人の意見を否定したりしないからこそ、違う価値観が共存できるのである。それは、数は少ないが「自立・自己責任」の側がイニシアチブを取る必要がある。まあ重要なのは「共存できる」ところであって、山の向こう側に住む人達が、どんな生活をしてどんな思いで暮らすのかは、それこそ結果としての「自己責任」にはなるのだが。


(16/09/09)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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