弱い犬ほどよく吠える




とあるところに、「SNSには『自殺したい』とい書き込みは多いが、結果については『自殺を思いとどまってよかったという』書き込みばかりである。だが、それは全体として自殺を思いとどまった人が多いからではなく、思い通り自殺を遂げてしまった人はSNSに結果を書こうと思っても書くことができないからだ」という論調の批評があった。鋭い分析、けだし名言である。まさに、この手のUGMの特徴を一言で表している。

UGMにおいては、発言自体が極めて「プル型」である。書き手が能動的に書き込まない限り、自分の意見がメディア上に反映されることはない。ある文章が書かれていたとき、その文章の読み手は何らかの反応や意見を持つに違いない。しかし、それは読み手の心の中だけの問題である。その反応や意見がメディア上に反映されるためには、「能動的な書き込み」という別のプロセスが必要となるのである。

しかし「能動的な書き込み」というのは、ごくごく一般的な日常生活を送り、ごくごく一般的な見識を持っている人にとっては、けっこう敷居が高い行動である。それは一つには、こういう「常識人」にとって「常識的な反応」というのは、ある意味「当たり前」のことであり、敢えて主張するまでもなく多くの人の間で共有されているリアクションだからだ。それをわざわざ主張する方が「常識知らず」ということになる。

もう一つは、いちいち意見を書き込むというのは相当に手間がかかる、よほどの暇人でないとやれない作業であることだ。TwitterやFacebookをやっている人はわかると思うが、ある程度以上フォロワーや友達が増えると、みんなの書き込みを読むだけでも相当な時間がかかる。ちょっとの間アクセスしないと、読んでない書き込みが怒涛のように増える。タイムラインに流れてくる書き込みを、全部読むことは不可能という人も多いのではないいかと思う。

全体を見渡せば、読むだけでも精一杯な人が多いのだ。ましてや、書き込みを行うような手間をかけることなど、とてもできない。むかしからRead Only Memberなどと呼ばれたが、UGMの会員といえども、読むだけの人の方が圧倒的に多いのである。そして、そういう人達が良く書き込む人の何倍もいるからこそ、SNSがメディアとして成り立っているのである。発言している人だけがメンバーではないし、目に見える発言だけが、会員の意見の全体ではない。

書き込んでいるのは、いわば「書くのが好きな人」なのである。その中には、高い見識を持って、それなりのオピニオンを書いている人もいる。しかし、数が多いのは、UGMに「書き込める」ことが、自分の意見が周囲に認められ受け入れられていることと勘違いし、それにより承認欲求を満たそうとする人達である。こういう人達が、ものすごい勢いで自分の意見を書き込んだり、自分と同じ意見の書き込みをリツイートしたりしている。

パソコン通信の昔からこの手のディジタル・コミュニケーション・メディアに熟達している人や、コミュニケーションリテラシーの高い人は、このあたりの事情についてはとっくにご承知だと思う。こういう偉大なる勘違いをしている人は、実社会にもいる。しかし、ディジタルメディアでの書き込みは、システムへは誰でも書き込めるものの、それがメディアの向こう側にいる人間に伝わり理解されるかどうかわからないのである。

そう、SNSとかUGMとかでも、結局はシステムを使いこなせるかどうかではなく、システムの向こう側にいる人間とコミュニケーションができるかどうかなのだ。すなわち、コミュニケーションには、リアル・ヴァーチャルの差は元々ない。手紙とか電話と同じ。その向こう側の人のことを、どれだけ考えて、どれだけ気持ちを共有できるか。ある意味、敢えて語らずとも意識を共有できると思える「サイレントマジョリティー」の方が、リテラシーが高いのだ。

パソコン通信の当時は、書き込めるだけでコミュニケーションが成り立ったり、自分の存在が承認されたと思う気持ちになった人達は「困ったちゃん」とか呼ばれていた。が、今では名前がある。コミュニケーション障害である。相手がどういう気持ちなのか、相手がどういう風に自分を見ているのかわからない人達。結局、UGMで一番書き込みが多いのは、そういう人達だ。彼らがそれで幸せになっているんであれば、それでいいではないか。それを温かく見守るのも、健常者の役割だと思うのだが、いかがだろうか。


(16/09/16)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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