理屈な人




認識ということに関しては、世の中には二種類のタイプがある。それは、ものごとを素直に見てそこから自分なりに感じ取ることができる人と、あくまでも知識や理屈を通してしか認識できない人である。これは必ずしも人間の類型ということではない。一人の人間の中でも、対象となる領域によって異なる類型が現れる場合もある。映画やドラマは素直に感じ取れるが、外国語の文章は理屈のフィルターを通さないと理解できないという人は、ワリと良く見かける。

とはいうものの、こと現代日本人については、ほとんどの領域において知識や理屈を通して認識・理解しようという人がかなり多いことは間違いない。明治以来、学歴主義・偏差値主義で「秀才」の育成に努めてきた悪影響と思われるが、「勉強して努力すればなんとかなる」という神話が広く社会に流布し、ほとんど無批判に受け入れられるような状況が長く続いてきた。また、同時に経済の高度成長が実現したため、知識や理屈をマスターすればなんとかなる社会も長く続いてきた。

ある意味、それは日本を取り巻く環境のおかげで「運が良かった」だけである。今でも新興国などではそうだが、高度成長しテイクオフ期にある社会においては、「追い付き追い越せ」が社会的スローガンになる。これは実に象徴的である。「追い付き」は明らかに明確な目標であるが、「追い越せ」はあくまでも精神的スローガンである。実際、日本も「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とか言われたものの、No.2に追いついたものの、追い越してNo.1にはなっていない。

ここがミソである。追い付くには、実はオリジナリティーはいらない。トップランナーに学び、それをデッドコピーしても、追い付くところまでは行ける。というより、徹底的に学び、模倣するのが、追い付くには最も効率的な方法である。このためには、ある意味DNAのようにデッドコピーが作りやすい知識や理屈を重視して、それを徹底的に教育し、モノまねマンを大量生産することで、数のパワーを発揮するのが最適解である。そして、それを最も得意とするのが秀才である。

そのため、明治以降急速な経済発展を至上課題としてきた日本が、秀才尊重社会となったことは容易に理解できるであろう。だが、それでは「追い越す」ことはできない。「追い越す」ためには、質的なパラダイム・シフトがなくてはならない。チャンピオンと同じワザをいくら磨いても、チャンピオンを倒すことはできないのだ。今までになかった新しいワザを繰り出してはじめて、チャンピオンを越えられる。「追い付く」ことと「追い越す」ことの間には、「0」と「1」の間ほどの質的な違いがあるのだ。

秀才は、知識と理屈でデッドコピーにより「追い付く」ことに最適化した人達である。この人達がいくら頑張ったところで、構造的に「追い越す」ことはできないのだ。バブル以降の日本経済は「失われた十年」とも「失われた二十年」言われる低迷が続いている。これは、日本がNo.1を「取りに行く」ポジションになったにもかかわらず、政財官のエリートと呼ばれる人達が秀才であるために、どうしても「追い越す」ことができなかったことに起因している。

問題はこれだけではない。21世紀に入ると、世界は産業社会から情報社会へと構造変化を遂げた。情報社会の特徴は、情報機器が処理すべき問題と、人間が処理しなくてはならない問題とがはっきりと分けられ、人間に求められる能力は、その後者の領域だけになるところにある。知識や理屈といった努力でどうにでもなる領域、勉強を頑張れば何とかなる領域は、機械の方が圧倒的に強いのである。

AIの進歩により、かつて産業革命の時に人間が腕力でやっていた作業を、圧倒的な生産効率で機械がこなすようになったのと同じように、20世紀までは人間がやらざるを得なかった作業の多くが、情報ネットワークにより処理されるようになりつつある。それとともに、人間がやらなくてはならないことはいったい何なのかという議論がよく見られるようになった。そういう意味では、「天才」しかできないことは人間の領域として残り続けるが、「秀才」が得意とする領域はAIの方がよほどローコストでスマートにこなすようになる。

そう、現代の日本は二重の意味で「秀才」受難の時代である。日本が世界のリーダーとなるためには、「追い越す」ための人材が求められる一方で、「追い付く」ための人材は不要とされるフェーズに入ったと同時に、AI等、情報社会の進化により、「秀才」や「職人」的な能力は人間が努力してこなすべき対象ではなくなってしまった。もはや「秀才」は、自動車が普及した時代の御者のようなものである。極めてニッチな領域でしか生き残れない能力となったのだ。

であるにもかかわらず、人事や能力開発の仕組みが秀才主義のままであるところに、日本社会の不幸がある。しかし、秀才というのは、後天的に教育と努力によって作られるものである。人間は生まれながらにして何らかの能力を持っている。その能力に立ち戻って、それを伸び伸びと伸ばせばよいのである。そして、日本社会にもそれなりに「天才」は存在している。決してその数が少ないわけではない。能ある鷹が爪を隠さざるを得ない社会というだけである。理屈を捨てよ。思うがままの道を歩け。日本に今一番求められいることは、これである。


(16/09/23)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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