記者の統計知らず




警察庁が「昨年の夜間の歩行者の死亡事故を起こした車の96%がロービームを使用していた」と発表した調査結果が、妙な展開になっている。ファクトとしては、その通りなのだと思うが、そのデータはなんら「事故とロービームの相関」を示しているものではない。警察関係の方々は、鑑識職員の一部の方は除き、現場のノンキャリアの警察官も、キャリアの警察官僚も、統計の素養のある人は極めて少ないと思われる。なので、警察の方がちゃんとデータを読めないのは致し方ないことである。

しいていうなら、ここから読み取れるのは「日本においては、人が道路を横断するような市街地を走行する際には、ロービームを使うことが多い」ということか、逆に「ハイビームを使うような交通量の少ない田舎道や高速道路では、歩行者の事故はあまり起きない」ということだけである。ハイビームを使えるようなところは、交通量も少ない上に人通りも少なく、そもそも歩行者の死亡事故が起きることは稀であるからこういう結果になるのであり、ハイビームにすれば事故が減るわけではない。

そういう「間違い」はあることを前提とした上で、ジャーナリズムの側がきちんとした統計的知識を持ち、ちゃんと解釈した上で報道するならば、さほど問題は起きない。しかし日本の新聞記者は、ここでも何度も論じたが、一般人に輪をかけて統計的な素養から縁遠い方々なのだ。統計を使いこなすことは、調査報道の一つのパターンである。数字から単なるファクトだけでなく、その裏にあるダイナミズムまで読み取る。これは充分ジャーナリズムである。

数字のウソ、あるいは数字から読み取れる真実。瞬間に真相を切り込むカットが撮れるカメラマンがジャーナリストたり得るのと同様に、数字からその裏にある真実を読み取れる統計のプロであればジャーナリストとして通用する。というより、統計的素養がある人が、ジャーナリスティックな視点でデータを読めば、いろいろなことが見えてくる。そういう意味では、ビッグデータとか言われるようにデータが飽和している現代の情報社会は、そういう視点を持った人にとっては、宝の山である。

ところが、新聞社でもテレビ局でもこういう「記者」はほとんどいない。私もかつての仕事の関係で、いろいろな調査データの記者発表を行ったが、新聞記者の人は本当にデータに関する感度が低い。仕方がないので、「サルでも読める統計データ」ではないが相当にリテラシーの低い人でもわかるような解題をつけてリリースを出しても、ちゃんと読んではくれない。まだ、テレビ局の方がわかる人がいる。それも、報道局ではなく、ワイドショーの取材チームとかの方だが。

それでも、リリースの数字を生のまま一次情報として伝えてくれるのならまだいい。わかってないわりに、自分の「理屈」をつけるのだ。わかっている人からすると、これは本当に恥ずかしい。新聞の記者さんとかは、早稲田とか東大とか秀才が多いので、自分が納得できる理屈が付けられれば、それで世の中を説得できると思っているのかもしれないが、読者はそんなに単純ではない。そういう上から目線だから、新聞のサーキュレーションが減るのである。

文化庁が発表した「ら抜きコトバ」を使う人の方が多くなったというリリースの扱いも同じである。記者発表自体は、単に「見られた」を使う人より「見れた」を使う人が調査の結果多かったというものである。事実としてはそういうことなのであろうが、調査そのものはなんら理由を示すものではないし、ましてやどっちがいいかという価値判断を含んでいるものでもない。単に現状はこうなっているというファクトしか示していない。

実は理由は簡単である。「ら抜き言葉」と呼ばれる用法は、老人には使用者は少なく、若くなればなるほど使用者が増えるという傾向がある。これは、年代の問題ではなく、世代による違いである。人格形成期のティーンズの頃に、どういう言い方が普通だったかという刷り込みが、一生続くからである。教育効果といってもいい。「ら抜き言葉」が自然な人は、歳取っても一生使い続ける。生活者インサイト系の仕事をしている人なら、これはすぐピンと来るだろう。

つまり、誕生日が「今日」に近い人ほど、「ら抜き言葉」を使う人が多いのである。だからこそ、時間が経って世代交代が進めば進むほど、国民全体の中で「ら抜き言葉」を使う人が増えて当然なのである。この調査はすでに何回かおこなわれているので、時系列的に比較すれば、こういう傾向はすぐにわかるであろう。というより、一回だけの調査でも、生年別の「ら抜き言葉」の使用比率を出してみれば、複雑な統計処理をしなくても簡単に証明できる。

厚生労働省が発表した「生活保護を受けている男性の3割がメタボ」という調査なんてのも出てきた。これも生活保護を受けたからメタボになったわけではない。同時に喫煙率も高いというデータが出ていることからもわかるように、生活保護を受けている人々の中には、自分自身の健康管理ができていないルーズな性格の人が、全体平均よりも有意に多い。原因はそっちである、その結果として、生活保護も、メタボも、喫煙率も出てくるのだ。

データは、何も語らない。単なる事実としての数値しか示さない。その理由や原因は、データをどれだけ見つめていてもわかることはない。データが役に立つのは、事実を示すがゆえに、仮説の妥当性を証明することができるからだ。データを活かすことができるのは、仮説を持っている人、仮説を立てられる人だけである。前提となる仮説があれば、それが有意に成り立つかどうかは、データから統計的に証明できる。これがデータの使いかたであり、統計の使いかたなのだ。 そうやって考えると、日本の新聞記者の「無知」さは、統計や数学を敬遠しているからではなく、仮説が立てられないからであることが理解できる。アメリカのジャーナリズムでよく見られる「調査報道」は、一次情報としてのファクトを集めるのではなく、仮説構築力・推理力を活かし、「もしかしたらこうではないのか」というストーリーを持ち、それを情報やデータにより立証するものである。だからこそ、見えない真実に切り込む力が強いのだ。

もともと日本の新聞は、自由民権運動の政党の機関紙から生まれた。プロパガンダの主張から始まったので、ジャーナリズムの志が薄いのは仕方ない。それが未だに尾を引いているのだ。今や新聞は、シニア層、老人層しか読まないものとなっている。それは、生活者にとって意味のある情報を提供していないからである。上から目線で、一方的に自分の意見を声高に主張するのでは、誰もついてこない。これは、単に「統計が苦手」ということにとどまらない、構造的な問題なのである。


(16/09/30)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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