官僚の本質




豊洲市場の盛り土疑惑問題で、報告書が提出された。その結果は、盛り土をせず建築を行うことが、なしくずし的に既成事実として積み上げられてきたプロセスは検証できたものの、誰がどのようにして盛り土をしないことを提案し決定してきたかということについては、全く不明なままということであった。また、事実と違う説明がなされ続けてきたことについては、責任者にはタテマエだけが報告され、実際のところは伝えられていなかったと結論付けている。

この報告書自体、当事者である都職員の調査チームによる分析なので、ある意味最初から限界があることは確かである。しかし、官僚の習性がわかっている人ならば、官僚の報告書は、自分達の内面の問題である「結論」こそ曖昧で玉虫色にするモノの、外部から検証が可能なファクトの部分は、意外と「偽装」しないものであることを理解している。そういう意味では、この報告書自体結論よりファクトを押さえておくとともに、官僚側の言質を取ることを目的としたものであろう。

ここでもすでに何度も論じているように、そもそも官僚組織は「個人が責任を取らずに済む」ことに対し、高度に特化した仕組みである。である以上、役所のやったことに対して、後から「誰の責任か」を問おうと思っても、それはまったく意味をなさない。大事なのは、そういう組織・体質であることをあぶりだして、問題はそういう官僚組織の本質にあるのであり、ここにメスを入れない限り、何も変わらないし、どんな対症療法を行っても意味がないということを周知の事実とすることである。

霞が関は官僚組織の権化だけあって、なかなかプロテクトがキツい。普段はタテ割りで利権争いをしている高級官僚達も、こと官僚組織そのものの一大事となるとたちまち一致団結する。何か問題が起きても、何匹かの「いけにえ」を出して群れ全体を救う野生の草食動物のように、人身御供を切り捨てる代わりに、最大の利権たる「無責任機構」全体は死守する方向に本能的に動く。それだけに、ラスボスというか非常に手ごわく、なかなか改革してゆくことはできない。

しかし、東京都は霞が関とは違う。東京都自体、欧州の一国に匹敵する規模があり、都庁単体として見ても、官僚機構としては極めて強力かつ精緻である。他の地方自治体とは比べ物にならない。しかし、その一方で霞が関ほどには一挙一動が衆人の目を集めるワケではない。このため、地方自治体らしい「脇の甘さ」を持っていることも確かだ。その分、官僚組織の持つ問題点が「ホコロビ」としてあらわになる可能性も強いということができる。

そして、東京都庁に問題が起きても、それは「一地方自治体」の問題で、中央官庁からみれば対岸の火事である。先程の言い方で言えば、規模は大きいけど「いけにえ」に過ぎない。都庁がどう叩かれようが、それで自分達の組織や利権が傷つかないのであれば、無視するだけで関わり合いは持たないのが基本的な習性だ。コト問題が東京都庁にとどまっている限りは、触らぬ神に祟りなしとおいう態度を取り続ける。

ここまで書けば、わかる人にはわかるであろう。日本の官僚機構を叩くのだが、それが「都庁の官僚を叩く」という形式を取っている限りは、直接の妨害は少ないのである。しかし結論が出て解決した時に、これは都庁固有の問題ではなく、日本の官僚機構が普遍的に持っている構造的問題だという認識が共有されれば、堅固な官僚機構に対して、決定的な「蟻の一穴」を穿つことができるのだ。

これはもしかして、千載一遇のチャンスである。それ以上に、2020東京オリンピック・パラリンピックを成功させるためには、霞が関を含めて日本の官僚機構を改革しなくてはならないという使命感もある。時はあたかも、産業社会から情報社会に移行し、官僚に代表される「秀才」の社会的存在感が失われつつある時代でもある。今まで問題意識を持っている人にとってのみ喫緊の課題として捉えられていたことを、国民的なテーマとできるのだ。

あたかも、小池知事は野中郁次郎先生の「失敗の本質」を持ち出してきた。野中先生は何度か仕事でご一緒させてもらったが、この本は一言で言えば、「旧帝国陸海軍は、軍隊ではなく官僚組織であり、日本の官僚組織の悪い面を全て体現していたので、惨敗してしまった」という内容である。後世の歴史家達が「2020年は、日本の官僚組織を打破し21世紀の日本の新たな基礎を構築する機会となった」と語るようになれば、オリンピック・パラリンピックの誘致は大成功だったと言えるだろう。


(16/10/07)

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