官僚の手口(その1)




「小池劇場」も都議会の開幕と共に、第二ラウンドに入りますます目が離せなくなってきた。当初の質疑を見ている分には、敵を議会ではなく、都庁の官僚に置くことで、是々非々の対応をしている政党を含め、議会も含めた「都民の代表vs.都庁の官僚」という構図を作り、輿論をバックにまずは都政改革から始めるという意気込みを感じる。前回すでに論じたように、都庁の官僚を叩くというのは、実は日本の官僚機構を叩くことに繋がる。

この流れを見ていると、小池都知事は、都政改革を成功させ、肥大化した利権機構としての都庁の官僚制を打破し、スリム化した2020オリンピック・パラリンピックの成功を実績に、霞が関にメスを入れる徹底した行政改革を旗印に、国政に復帰し、首相の座を狙うのではないかとさえ思えてくる。大きい政府と官僚利権の打破は、個人的にも生きているうちにぜひ実現してほしいイッシューであり、そうなるのであればぜひ期待したい。

ということで今回は、今まで私が仕事をしてきた中で出会った「官僚の手口」を紹介しつつ、官僚のホンネがどこにあるのかを赤裸々に示してみたいと思う。私の仕事は、広告やイベントの企画・制作および実施と、マーケティング・コンサルティングが中心となっていた。クライアントはほとんど民間企業だったので「官」は少ない。それだけに、限られた「官」の作業においては、その「歪み」がストレートに感じられたものである。

もう時効だから言うが、子会社のコンサルティング会社の経営をし、とある霞が関の委員会の委員だった時に、その場で発表した内容から派生して、その委員会を取り仕切っていた省庁から調査分析作業を依頼されたことがある。その作業自体は、一般の民間企業から同種の作業を受注していることもあり、私の会社は充分競争力があり、質の高い作業が可能であったことは間違いない。それはそうなのだが、発注にあたって担当の課長が言ってきたことを聞いてびっくりした。

「今では、この作業は金額の関係から随契にはできず、一般入札にしなくてはならない。ついては、過去の実績や業務経験年数等の客観的な定量指標を組み合わせて、御社以外は事実上応募できないような3項目の条件を作って欲しい」とのこと。これっていわゆる「官製談合」じゃないですか。いやあ、こうやって事実上の随契にしちゃうのね。こういう現場に居合わせることになるとは思わなかった。しかし、泥棒に縄を綯わせるではないが、その条件まで相手に考えさせるってのはねえ。

仕方がないので、パズルの問題を作るように頭をヒネって作りましたよ。3項目の条件を。まず、この領域に関連して私の会社でしか実施したことがないと思われる調査があったので、そういう調査の実施実績を問うのが第一項。ある視点からの定点観測を10年以上毎年やっている会社も他にないと思われたので、この定点観測の10年以上の実績を問うのが第二項。そして実績がわかりにくい純粋な調査会社を排除するために、この領域で自社が出した出版物の実績を問うのが第三項。結果、応札したのは弊社一社だけでありました。

ここで学ぶべき重要なポイントは、「制度では官僚は縛れない」ということである。確かに制度的には公募の入札という形式を取っているし、外見的にはそのようなステップを踏んでいる。入札にすれば、世間的には「公正」になるというイメージは作れる。入札の結果こうなったということを示せれば、ある種「禊」をすませたことになる。しかし、その実態は全く違い、結果から見れば随意契約と異ならない。名を捨てて実を取る。これこそ、官僚の法制度の利用法なのだ。

彼らが形式要件を重視するのは、「そこさえ押さえておけば、あとの部分は運用でどうにでもできるようにする」ためと、「形式要件さえ満たすようになっていれば、一切責任は問われないようにする」ためである。まさに、世を欺くための手段なのだ。形式要件を守ったところで、実質はいくらでも骨抜きに出来る。そもそもそうできるように求められる形式要件を決めているのだ。まさに、他社が応募できなくなるような条件を提示するように。

もっというと、官主導で作られた法律も、多くの場合このようなトラップが嵌められている。条文自体はいかにももっともらしく、誰も文句を言えないような「タテマエ」論で固めてある。しかし総論は誰から見ても正しくても、各論は何も決めていない。後日省令等でいかようにも運用できるように、そこは議論の外側になるようにしているのだ。これが、日本の行政の本質である。法律を作る人自身が最初から抜け穴を作っておく。これでは法治主義とはいえない。

まさに「解釈改憲」こそ日本の官僚の神髄なのだ。法律を棚上げしてアンタッチャブルにし、自分達がいくらでも恣意的にできる運用で実際のルールを決める。これが官僚達の権限を増大させるし、許認可利権もいくらでも拡大することに繋がる。江戸時代から日本の庶民は、お上の決めることのスキ間をうまく使って、「鬼の居ぬ間の洗濯」的な味を占めてきた。20世紀に入ってから、そういう庶民出身の偏差値エリートが官僚として権力を握るようになると、「お上」自身がそういうスキ間でおいしいことをしだしたのだ。
ルールを守っているから大丈夫なのではない。ルール自体が最初から骨抜きになってい
るので、形式的にはそれを守っているとしても、実効はなにもない。それが日本のルール、日本の「法治」なのだ。そしてそういく形式的法治を遵守することで、自分達の裁量を拡大し、許認可利権、バラ撒き利権を拡大しているのが、偏差値エリート集団の「官僚」なのである。今回の「劇場」により、この事実に対する認識が共有されるだけでも、意味は大きいだろう。

次回に続く。乞うご期待。


(16/10/14)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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