官僚の手口(その2)




官僚と聞いて、最初に思い浮かべるものは何だろうか。天下り、許認可、バラ撒き、ハコ物公共事業。中には「ノーパンしゃぶしゃぶ」とか「MOF担」とか、昔の大蔵省の頃の「事件」を思い出す人もいるだろう。この全てには、通底しているものがある。それは「利権」である。官僚にとって、最も重要な価値観は「利権」である。昔、脳内メーカーなんていうのが流行ったことがあったが、アレで行くと官僚の脳内は「利権」「利権」「利権」ばかりである。これは間違いない。

しかし彼らは、タテマエとホンネの使いわけを身上とする秀才だけのことはあって、なるべくその「脳内」の実態は悟られないようにしている。だがそれは、書面上だけのこと。自意識過剰の官僚たちは、自分達の方が頭がいいのだから、どうせバレないしごまかし切れるだろうと意外と脇が甘いのが実態である。近くでその所作を観察していると、「頭隠して、尻隠さず」な場合が結構多い。だが周りにいるのが「同じ穴のムジナ」の利権集団ばかりなので、見て見ぬふりをしているだけである。

秀才というのは、ロジカルで演繹的にものを考えてゆくので、論理的な連鎖をどこかでブラックボックスにしてしまえば、それでごまかし切れると信じている。確かに、演繹的な思考においてはそうだ。しかし、世の中には演繹的に考えず、直観で結論を出してしまう人がいる。いわゆる「地アタマがいい人」や「天才」である。こういう人たちから見ると、官僚達の脇の甘さは、一目瞭然である。「勉強ができる」ことと「頭の回転が速い」ことは、全く異なる。この話も面白いのだが、今回の主題ではないのでまた別の機会に。

彼らの利権に関するロジックの面白いところは、利権を取り巻く周辺構造の認識や分析、すなわち総論については極めて客観的かつ論理的で、タテマエとしては誰も文句の言いようのない筋を通す一方で、そこから出てくる結論が極めて主観的かつ恣意的に、自分達の利権を擁護・確保するところに落ちてくる点である。そして前回も書いたが、広くコンセンサスを取るのは前者の総論の部分だけで、後半の部分は自家籠中のものとしてコソコソっと目に触れないようにしてやってしまう。

この部分についても、かつて仕事として珍しい経験をした。橋本行革で省庁再編が行われようとしていた、世紀の変わり目頃のこと。世間はネットバブルブームに沸き、ギョーカイではメディア・コンテンツのパラダイム・シフトの行方に関心が集まっていた。折しも、メディア・コンテンツに関わる官庁も、郵政省が総務庁、自治省と合併して総務省となる一方、通商産業省も経済産業省へ移行することが発表された。

この二つの波が重なる時期に、郵政省・通産省の現場にいる中堅官僚が、現状をどうとらえ、どうしようと思っているのかをヒアリング調査しようということになった。さすがにストレートには聞けないので、霞が関に顔の効く外部の大学教授を表に立てて、あくまでも学術的な調査という体裁をとることにした。そして、この領域に詳しいと同時に、霞が関に面の割れていない私が、直接の担当でないにもかかわらず引っ張り出され、「教授でござい」という顔をしてヒアリングを行うことになった。

まさに、橋本行革が功を奏していた時期で、それまでは青天井だった民間からの接待が厳禁となっていただけに、飲ませて食わせて放談会を行うと、郵政も通算も、皆さん非常に積極的に参加していただけた。気分よさそうに、しゃべるはしゃべるは。あくまでも、これは20世紀の頃で15年以上前の出来事である。公務員の職務関連犯罪の時効は、最長でも15年なのでそこの部分は問題にならないことを前提として読んでいただきたい。

まず、メディア・コンテンツに関する現状認識や将来展望については、郵政・通産とも極めて正確で的確であった。そして、その内容もほとんど変わらない。一言で言えば、20世紀においてはインフラからプラットフォーム、コンテンツが、主としてインフラに依存する垂直統合型のビジネスモデルとして提供されているものが、各レイヤーごとに強者があらわれてマジョリティーを握る水平統合型になるだろうという認識である。

当時のメディア・コンテンツ業界内部の人達の認識が、実はパラダイムシフトがあった方がチャンスが広がる可能性があるにもかかわらず、将来に対する不安から水平統合型への移行を必要以上に否定する傾向があったのとは大きな違いである。コンテンツ制作者としてのクリエイターとコンテンツ消費者としての生活者の関係を考えれば、市場原理が働いて水平統合型に移行する(経路は何であっても、コンテンツは同じように楽しめる)ことは必然であった。

だが、問題はここからだ。我々のようにビジネスに携わるものであれば、このパラダイムシフトに対応して、どういう新たなビジネスモデルを構築すればチャンスを掴まえられるのか、ということになる。しかし、官僚たちがここから導き出す結論は、きまって「このパラダイムシフトに便乗して、新たなドメインをいかに自分達の許認可の対象とし、利権とするのか」、そして「あわよくば、漁夫の利で他省庁の利権になっている領域を自分達の利権に組み入れるのか」ということしかないのだ。

コンテンツを管轄する通産省は、「コンテンツこそ金を生み出す源泉なので、ここをベースに流通・プラットフォームを押さえる。そうすれば、インフラはただの土管になってしまうので、実質上コンテンツを握っているものが全てを利権化できる」という作戦を立てる。インフラを管轄する郵政省は、「消費者からの現金収入をチャリンチャリンと握っているインフラこそ、メディア・コンテンツ業界の生命線を握れる。これをおさえていれば流通・プラットフォームは屈服するし、コンテンツそのものも利権化できる」と豪語する。

これを語るときの官僚たちの顔は、「もう勝ったも同然」というドヤ顔になっている。しかし、所詮は「獲らぬ狸の皮算用」なのだが。「信長の野望」とか戦国シミュレーションゲームをやってるんじゃないんだから。でも、結局はこれなのである。国や国民のことなど、これっぽっちも考えていない(もちろん、官庁内には少数だがマジメに世のためになることを考えている人がいることも確かだ)。それは所詮はタテマエである。やはり、どうやって自分達の許認可の対象にし、利権化するかだけなのだ。その後がどうなっているかは、皆さんご覧の通り。

貧すれば鈍するではないが、こういう連中に予算と権限を与えてはいけない。何度も言っているが、国がまだ貧しく資金力もなかった高度成長期には、傾斜生産方式のように、中央集中型の再配分システムもそれなりに意味があったかもしれない。しかし、社会資本も充実し、資金も潤沢に存在している時代になった以上、こういう中央集中型のシステムは、無駄なだけでなく、利権やお手盛りを生む悪の元凶でしかない。小池都知事の都政改革の中から、このような官僚の手口が周知の事実となり、国政改革へと繋がることをぜひ期待したい。


(16/10/21)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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