バラ撒きのルーツ





「バラ撒き補助金」のルーツを探ってみよう。それは、列強が世界を植民地をして分割し支配しようとした帝国主義の時代に求めることができる。植民地の中には、天然資源やプランテーションによる農業生産など、経済的な動機で獲得に乗りだした地域もある。その一方で、列強の競争の中から、地政学的な視点から橋頭堡の確保として、政治的・軍事な動機で獲得した地域も多い。

後者の地域は、経済的には赤字である。それでも世界戦略の中では押さえておかなくてはならない。このため、こういう地域では政府の資金を投入して地域経営が行われることになる。入植等も行われるにせよ、そのままでは競争力を持たない。このため、補助金を付けたり、税制等各種優遇措置を取ることで、形式的に経済的エコシステムが成り立つようにすることが一般的になった。

補助金がなければ、その地域の経済自体が経済的に成り立たない。マクロ的にはこの傾向はかなり顕著だが、ミクロ的にもこのバラ撒き構造は実感しやすいものであった。入植者は、もともと時の政府の都合で入植させられた。軍隊により開墾されたり、流刑地として開墾されたところもないわけではない。しかし多くは、採算を度外視したかなりおいしい条件を出し、税金をそこに投入することで、人々をフロンティアに集めたのだ。

世界の富が集中する世界帝国だからこそ、このような贅沢な戦略が取れた。各帝国の中では、経済的エコシステムが成り立ち、収支バランスが取れていたからこそ、「持ち出し」のエリアも経営することができたのである。そしてそのための手段が「バラ撒き」だったのだ。かつての列強割拠の帝国主義の時代に生まれた「バラ撒き」は、二大勢力が世界を分け合った冷戦の時代になってさらに強化された。

その時代においては、冷戦に勝利する、すなわち相手の勢力より仲間を多く確保し、世界レベルでの優勢を保つことが何よりも重視された。ドミノ理論などといわれたが、コアとなっている国や地域が雪崩を打って相手側と組することが最も恐れられていた。武力衝突ではなく、平時における勢力争いが雌雄を決するものだからこそ「冷戦」と呼ばれたのである。この時代、最大の武器となったのは「援助」である。

直接的に資金や軍備などを与える援助も多かったが、いろいろな優遇措置により相手が有利になる条件を作り出すタイプの援助も行われた。日本は戦後長らく、1ドル360円という当時としても円安なレートに固定され、諸外国、特にアメリカを中心とする先進国への輸出において圧倒的に有利な立場にあった。歴史に残る高度成長も、このダンピングともいえる輸出ドライブがあったからこそ成り立ったといえる。

もちろん、アメリカからしても世界戦略の中で日本の生産力を安く活用できるというメリットがあったことは間違いない。日本では「朝鮮特需」と呼ばれたが、朝鮮戦争の際に日本の生産力を活用し軍事拠点とすることで、アメリカの軍事費はドル建てでは相当にセーブできただろう。とはいえ「三方一両得」とでも言おうか、日本にもメリットを与えて、自陣営に引きつけておくところが、冷戦下の戦略である。

しかし、時代が変わってる。今はもはやそういう大国が覇権を争う時代ではない。もちろん、大国ヅラをしたがる国は今でもある。しかし、寄生虫に悩むゾウのように、そういう「大国」といえども皆ウィルスのような微細なテロ勢力からの挑発に悩み、泰然としていることはできなくなっている。自分達の勢力を誇示するためだけに、多額の資金を投入・浪費し、バラ撒きによってその地域の支配権をキープするということは不可能なのだ。

冷戦自体、経済的破綻により終了したといわれている。それは多額の軍事費負担に耐えられなくなった(特に旧ソ連)ことにより引き金が引かれたと説明されることが多い。しかしそれだけではなく、経済的エコシステムのバランスを無視して、一方的に資金を投入することで勢力圏を維持することが不可能になったことも、同じくらい重要なファクターである。そもそもバラ撒きの元となった政策自体がこの体たらくなのだ。

日本のバラ撒き行政も、このような大国による世界的バラ撒き体制のサブセット(それもかなり劣化した)として存在し得たのである。それは、帝国主義や冷戦の遺物なのだ。バラ撒き構造の根幹ともいえる「大国主義」自体が、経済的に立ち行かなくなっている以上、バラ撒きは、19世紀、20世紀の大時代的なレガシーに過ぎない。そもそもバラ撒きがなくては経済的エコシステムが成り立たないエリアを支配しようという発想自体が、21世紀にふさわしくないのだ。

(16/11/04)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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