Noを言える人





自立している人、自立しようと努力している人。すなわちSelf Helpな人達は、「No」を言うことができる。相手に頼っていないからこそ、相手に対してNoを突きつけられるのである。そして、自立している人であれば、義理を負っている相手に対してNoを言ってはいけないことも重々理解できる。相手から何か貰うということは、その時点で対等な関係ではなくなってしまうということなのだ。

逆に言えば、相手に対してNoを言う権利を担保するためには、相手に頼ってはいけないのである。そういうオブリゲーションがないからこそ、Noが言えるし、Noと決断する重みを持つのである。ところが、バラ撒きにすがっている人達は、なぜかNoばかり言っている。特にサヨクな人達は、自分達は弱者であると称しバラ撒きの恩恵にあずかっているくせに、バラ撒きの元締めである行政に対しNoばかり言っている。

明らかに論理が矛盾しているにもかかわらず、論理の破綻など気にもとめない。こういう人達は、一体どういう性分なのか。このルーツは、55年体制、すなわち高度成長と冷戦に求めることができる。すでに何度も指摘してきたが、保守が合同し自由民主党となり、革新も合同して日本社会党となった55年体制においては、議会運営は表面的には保守と革新の対立が基本となっていた。しかし、その対立はあくまでも表面的な構造であった。

実質的には、相互依存構造を強め利権を確保しバラ撒くシステムをより強固なものとするために、タテマエとしての対立構造を明確化していたのである。実際には相互にもたれ合い支え合っていても、外見的にはぶつかり対立しているように見える。そういう風に対立構造があった方が、出来レースでバラ撒くよりもバラ撒きに対するアカウンタビリティーも担保できるし、貰う方も単におこぼれに預かっているようにも見えずにすむ。

その典型は、文部省と日教組であろう。この両者は、表面的には不倶戴天の敵というライバル関係である。互いに相手を批判し合い続けてきた。しかし、視点を変えると全く違う構造が見えてくる。教育の内情に詳しい人ならば誰でも知っているが、実は公立学校というのは利権の巣窟である。学校への納入物は、市場の実勢価格と乖離した高い「学校価格」で取引されている。学校自体に対する公費の投入も莫大なものがある。

このような「学校利権」を維持・拡大しようという点においては、文部省と日教組は完全に一致し絶妙なタッグを組んでいる。表面的な対立構造も、学校の裏に潜むこの巨大な利権構造を隠蔽し、そこにチェックの目が入るのを防ぐための偽装ではないかという疑いさえ湧いてくる。民間でも高度成長期以降の労働組合は、既得権を守り出来レースをするための組織となってきた。70年代の公社・現業系の組合が先鋭化したのは、こういう既得権から置いてきぼりを食ったためとみることもできる。

Noといえばいうほど、バラ撒きが正当化され、もっとよこせという圧力にもなる。これは、沖縄や北海道に代表される僻地・過疎地でも見られる現象である。これらの地域は、そもそも産業基盤がなく中央からの補助金があって経済が成り立っている。確かに貰うことが当たり前になると無心することに抵抗がなくなってしまうのかもしれないが、自助努力をせず文句だけをタレてバラ撒きをせびる傾向は強く見られる。

ほんとうにNoを言う権利は、誰にも等しくあるわけではない。他人に頼らず自立した人だけが、他人に対してNoを言うことができる。逆に一度バラ撒きを貰ったら、その人の語るNoは形式だけで内容がないNoである。そう、これから人を分ける基準は、階級でもイデオロギーでもない。自助努力をしているのか、他人に甘えて頼っているのか。この違いが一番大きい。Noを言える人と、Noを言えない人といってもいい。

アメリカの大統領選挙もそうだが、このところ今まで100年以上に渡って基準となってきた20世紀的・産業社会的なスキームが制度疲労し、パラダイムシフトを引き起こしていることが誰の目にも明らかになってくる事象が多い。そういう時代なのである。21世紀的・情報社会的なスキームを受け入れなくてはならないし、それをいち早く受け入れたものが、これからの世界ではリーディングポジションをとることができる。Noを言えるか言えないかも、その重要な基準の一つとなるのだ。


(16/11/18)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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