リベラルの限界






トランプ氏が大統領選挙で勝利して以降、アメリカ社会における「Politically Collect(以下PC)」のあり方が問われている。PCが日本で言う「タテマエ」だというのは、筆者はこの場ではかなり昔から主張していた。そこで行われることは、結局は「コトバ狩り・記号狩り」という表面的な取り繕いである。これを突き詰めれば、視野に入るものは表面的に消し去ることはできる。しかしそれだからと言って、人々の心の中にあるものまで消し去ることはできない。

それだけではない。禁酒法が施行されると、表の社会から酒は消えたものの、逆に酒がアンダーグラウンド化し、ギャングによる地下経済の主要な商品となった。表から見えなくなったからといって、人々の本質は変わらない。逆に表の「タテマエ」と裏の「ホンネ」と、人々の意識や行動の乖離が激しくなるのが世の常である。差別やイジメでこの乖離が激化すると、起こるのは「陰湿化」だけだ。

やはりここでカギとなるのは、ドイツにおけるナチスの存在をどうとらえるかである。ナチスに対する考え方は、主義主張の立場によって大きく異なる。ナチスドイツにおいては、アドルフ・ヒトラーという独裁者が存在したため、結果的にはヒトラー個人に全責任を押し付け、ドイツの民衆は免罪される形で落とし前をつけることになっている。しかし、ナチス党は絶対王権のように、武力で民衆を脅して政権を奪取したわけではない。

第一次大戦後のドイツは、ワイマール憲法という極めて民主的で大衆の意思を反映できる政治スキームを持っていた。ナチス党による政権の掌握は、ワイマール体制のスキームに則った形で、大衆の意思という形で行われた。どちらかというと、帝政プロイセン時代の中枢と繋がっていた既存の資本家や保守政治家は、ナチスに対しては批判的だった。政権掌握後の独裁体制と、政権掌握のプロセスとは、全く異なるのである。

ここでカギになるのは、ドイツの大衆の心の中に反ユダヤ主義が普遍的に存在していたことである。ユダヤ人に対する敵愾心は、ドイツの庶民は古くから誰もが持っていた。その歴史は中世の頃まで遡ることができる。これがホンネとしてベースにあり、人々の心の中で現状への不満が高まっていたからこそ、ユダヤ人差別を声高に主張したナチスが、人々から熱狂的に支持されたのである。

よく知られているように、現在でも西欧ではナチス的なイメージ繋がるものは厳しく禁止されている。ここまでナチス的な記号をを封印しなくてはならないのは、ドイツの大衆の人々の心の中に「ナチス的なるもの」が脈々とあるからこそ、すべて禁止してしまわない限り必ず不死鳥のようによみがえってしまうことを、欧州人なら誰もが知っていたからだ。「ホンネ」は押さえられないからこそ、「禁止」で対抗するという構図である。

リベラリズムは、差別やイジメを封印すればその内に人々の心の中からそういう意識が消え、この世からなくすことができると主張していた。それが、ある意味「コトバ狩り」や「記号の封印」を正当化する論拠となっていた。このような考え方は、少なくとも20世紀後半の先進国においては「定説」となっていた。だからこそ、完全にナチスの痕跡を封印したドイツが賞賛され、「言論の自由」を許した日本を批判する「リベラル」な知識人が多かった。

しかしそれは、ユーラシアの東端から遠く離れた欧州の状況を想像で語ったユートピアに過ぎないことが、今となっては明確になった。それだけではない。欧米においては50年以上に渡って押さえ続けられてきたことで、タテマエ疲れ、PC疲れが極に達し、「そろそろ禊は済んだのだから、本音を語らせてくれ」という気風があふれてきているのである。それが、21世紀に入ってからの政治・言論の状況である。

考えてみれば、PCは決して民主的ではないし、思想信条の自由にも反するものである。20世紀的な産業社会においては、スケールメリットを追求する必要があり、数をまとめ上げるための手法が求められた。しかし、21世紀的な情報社会では数の論理は必ずしも必要ない。それよりは、同質性を追求した小さなコミュニティーの独立性を強め、それらのコミュニティーが共存できるようなスキームを追求することの方が求められている。

リベラリズムも、20世紀的な産業社会の仇花と考えれば、それなりにその存在意義があったろうし、時代背景を考慮した評価も可能である。しかし、今はそういう時代ではない。大きい集団を作った上で、多種多様な意識や行動が共存するのではなく、多種多少な意識や行動ごとにコミュニティー集団を作り、そのクラスタ同士の平和共存を図ることができるし、その方がより全体の幸福を拡大できる。いつまでも20世紀の産業社会ではない。まさに「360°カメラ」のように、広い視野で世の中を見ることが求められているのだ。

私は「偽善の平和」は嫌いである。表面的にいくら相手をリスペクトしているふりをしていても、心の中で憎しみ合っているのでは、何も解決しない。それどころかストレスや怒りは増長するばかりである。それなら、ストレートに感情を出し、ぶつかり合い、喧嘩した方がよほど健全だし、健康的である。自分をぶつけ合うからこそ、そこから何かが生まれ、ソリューションとなる。21世紀は、ホンネが言える世の中にしなくてはならない。そのほうが、よほど自由主義的で市場原理にも適っている。

(16/11/25)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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