男女差別の構図から見えるもの






ダイバーシティーが時代のキーワードになり、いろいろな面で社会のユニバーサル化が進んできている。それとともに、区別と差別の違いも次第に理解されるようになってきている。違いがあることが全て差別なのではなく、本人の意思や希望に反して「違わされてしまう」ことが差別だというのは、多様性を考える上では極めて重要なポイントになる。だが、こと男女の差別となるとなぜか事情が複雑になってくる。

男女差別に関して本当の意味でダイバーシティーな考え方は、性差も含めて人は百人百様、みな違った生き方や価値観があり、それを互いに尊重し合うことが最も重要であり、それが実現できれば問題は解決する、というものである。この立場に立つならば、性別の違いや男女の役割の違いも、人々の多様な生き方のファクターの一つに過ぎないと捉えることになる。当然性差についても男女二元論ではなく、多様なあり方を認めることができる。

従って、結論としては「世の中の構造や価値のあり方を多元的にすることが大事であり、男女差別の問題は現状の社会構造の中で対症療法でどうこうできるものではない」ということになるが、男女差別を声高に主張する人達の中には、現状の男女の役割分担や社会的ジェンダー観を前提として固定した上で「男女同権」を主張する人も多い。いわば「社会的ジェンダー不適合」である。

こういう人達、特にフェミニズム活動家は現状の社会において男性の方が特権が多いという認識を前提に、「女性も社会的に男性になれるようにしろ」と主張しているワケである。そこに利権があることが、運動の大前提になっている。決して社会的なスキームを変えようとしているのではない。だからこそ、「自分達にも利権の分け前を」と主張する労働組合や市民運動といったかつての革新政党系の社会運動と相性がいいのである。

本当にダイバーシティーな社会が実現してしまったら、自分達が手に入れたかった利権がなくなってしまう。社会を変えて既得権をなくするのではなく、自分達も利権の分け前が欲しいという運動なのである。だからこそ、こういう人達は多様性を認めようとしないし、多様性を実現しようという人たちと対立する。それだけでなく、自分達と異なるオピニオンを持つ人たちの存在自体を否定しようとさえする。

すなわちこと男女差別の問題について考えるなら、「女性の権利」を主張する人の中にも、現状の「男性社会」の構造を肯定しつつ男女の役割分担を否定し、女性が男性と同じことができるのを良しとする人と、男女の役割分担を肯定しつつ、社会の構造を変えて女性が女性らしい生き方を選択しても損をしない世の中にしようとする人がいる。社会的な「大きい物語」を変えないのかそれとも変えるのか、この両者では目指す社会がまったく異なるのだ。視点を変えれば、多様性を否定するか肯定するかという違いでもある。

特権や利権など社会的クラスター間に差異があることを良しとするのか、どのようなクラスターでも自分の指向に合わせて自由に選べて損得がないことを良しとするのか。まず理想とする社会像がある。その中で自分がどのクラスターを目指したいのかという選択がある。このように男女の平等という時にも、LBGTの自己認識と性志向全ての組合せがあるのと同様に、自分の理想としている環境とそれに対する現状認識の組合せで捉える必要がある。

社会的には機会の均等が実現されても、どういう職業を選び、どういう生き方をするかは、本人の希望や意志の問題である。いや、機会の均等が実現されればされるほど、社会的に役割を押し付けられるのではなく、本当に自分がやりたい生き方を選べるようになる。だからこそ、男性と同じロールモデルを選ばない女性も多い。ダイバーシティーが実現した社会では、それは自由意志による選択であり尊重されるべきである。

一方、アーティストやフリーランスを仕事として選んでも社会的に白い目で見られることが少なく、既成の組織やヒエラルヒーにとらわれずに生きることができる女性のロールモデルに憧れる男性も多い。たとえば画家になりたかったが、こういう生き方を選んだ場合には、周りの視線に「社会的な圧力」を感じて仕方なく会社員をやっているという男性も少なくない。また、職場と折り合いが悪い時も、男性はなかなか辞めづらいという話も聞く。

このように同じ問題に対して、正反対とも思える主張の違いが生まれるのはなぜであろうか。その背景には、どのような家庭に育ったかという問題がある。職業観や社会的ジェンダー観は家庭観と関係が深い。しかし家庭観は、自分が育った家庭からの影響が大きい。学校や社会の影響は少ない。というより、自分の家庭環境に依存しているといってもいい。どんな親の元で育ったかによって家庭観の刷り込みは違い過ぎるのだ。

中小企業の経営者や士業など自営業の家に育った人と、官僚やサラリーマンの家に育った人とでは、見ている世界がまったく異なっている。たとえば、母親がオーナー社長で切り盛りしている姿を見て育ったりすれば、社会的ジェンダーのイメージがサラリーマンと専業主婦の家庭と違うことは容易に想像できる。両親が役員で実質的に父親が工場長、母親が総務部長というのも中小メーカーではよくある。

この差は大きすぎる。まして、官僚やサラリーマンのような組織人が「普通」で「一般的」という考え方がすでに通用しない。組織人は、20世紀的な産業社会に特化した人間のあり方である。やはりこの問題も、旧来の産業社会的な社会構造の一環としての「男女問題」として固定的に捉えるのではなく、情報社会への構造変化とともに生まれる「新しいスキーム」の中で発展的に解消されるべき問題として捉えるべきものなのである。

(16/12/09)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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