甘える人達





ひとはバラバラに生きるべきである。互いに甘え合い、もたれ合うのが間違っている。一人一人が自立しる社会であれば、そんなこと敢えて言う必要はない。21世紀に入った現代の日本社会でも、人々は甘え合い、もたれ合おうと思っている。いや、人口が停滞し、経済も横ばいの安定型になってから、一段と甘え・もたれ合いへの渇望は強まっているようにさえ見える。まさに、世界の流れに逆行するガラパゴス化である。

隙あれば甘えようと思っているから、間違いが起こるのだ。自分のケツは自分で拭く。それができる限り自己責任は取れるし、その範囲ならば何をやっても構わない。その気持ちをはっきり持っていれば、何もこわいものはない。逆に依存心が強くなると、弱いものが数に頼る集団に寄らば大樹の陰とばかり人々が集まりだす。結果としてそういう実行力も責任力も持たない人間の集団が、単に数だけでマジョリティーのクラスタとなり、暴走して差別や戦争を生む。

「みんな一緒」という信仰が日本社会には根強い。しかしそれは嘘である。人間は百人百様である。みんな一人一人違うからいいのだ。敢えてまとまる必要はない。一緒だからまとまるのではない。まとまってしまうのは、集団の中に紛れたいという強い動機を持っているからである。自分の顔が晒され、自分の存在が問われるのが耐えられない。その弱さをゴマかしたいからこそ、つるもうとするのである。

とはいえ、一人ではできないことがあるから、仕方なく相手と組むことはある。つるんだりぶるさがったりし合うことを前提とするのは、単なる甘え。組織からは、甘えは排除すべきである。だが、日本の組織は甘えをベースとして構築されてしまっている。太平洋戦争の敗戦も、バブルの崩壊も、近代日本社会の不幸は、本来、産業社会的な合理主義の上に成り立つべき近代組織が、甘えの論理の上に築かれてしまったところにある。

世界的に見れば、デフォルトでは「人を信じない」性悪説の人達の方が多い。日本では組織でも、相手が「言えばキチンとやってくれる」のを前提に行動する傾向が強いが、海外では「言ってもやるワケがない」のを前提に、どうやってやらせるのかというシステムまでもビルトインした形で、組織が構成され、マニュアルが作られている。それでも組織は動くし、少なくとも結果としてはより効率の良い運営ができている。

アメリカの企業では、景気の変動を受けてレイオフが頻繁に行われる。日本的な労働慣習からみるとずいぶんドライな感じがするが、そもそも労働者側に真剣に働く気がないことを前提にしてみると、労使双方にとって合理的な対応と考えることができる。週給制とか、働いた分だけきっちりペイするやり方も、「労働者は期待しても働かない」存在として捉えるならば、極めて効率がいいやり方である。

中国の古典が好きな人は、戦争になっても中国人同士はほとんどドンパチやらないことをよく知っている。そもそも中国では、一部の高官を除くと「忠誠心」を持っている人は少ない。軍隊でも兵隊となると皆無である。だから、待遇がよければ兵士もすぐそっちに寝返る。したがって、ウマいものを食わせて、楽しいことをさせれば、戦う以前に敵の兵隊を全部寝返らせることもできるし、そっちが軍事戦略の主流になってきた。

別に相手に期待する必要はない。それは単なる甘えである。期待すればするほど、期待通りにいかなかった時の失望感や怒りは大きくなる。逆に、期待がない状態でどうするかを考えておけば、それ以上のパフォーマンスを示してくれれば御の字である。組織の成り立ちからして、甘え文化の日本では真逆なのである。不祥事だって、放っておけば必ず起きるのを前提に対応を考えておけば、効率よく防ぐことができる。

意見は、それを他人に押し付けた瞬間に暴力になる。自分がどのような意見を持つのも自由だし、それを自分が責任を負える範囲で実施するのも自由である。だがそれはあくまでも、個人や意見を同じくする人々の中だけで行うべきことであり、もともと意見が違うであろう他人に無理強いしてはいけない。自由を守るためのルールはこれだけ。ごくごく簡単なことである。自分は自分で生きる。その気持ちさえあれば、道は拓けるのだ。


(16/12/16)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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