門戸開放・民族自決





昨今、全世界的に民族主義が蔓延しているといわれる。個人的には、世界は一つ、世界共通みたいな「大きなくくり」を良しとする考えかたは好きではない。基本的に人間社会は、同種の人間だけが集まった小さいクラスタに分裂して生活してゆくべきだと考えている。だから、このような傾向には決して反対ではない。ここで大事なのは、バラバラになることにより、他の意見には「無関心な許容性」を持ちやすくなるという点である。

人間にとって一番大事なのは、「多種多様な意見の共存を許す」ということだ。大きい集団の中では、多種多様な意見の共存が難しいことは、人類の歴史が示している。多種多様な意見を共存させるには、多種多様な意見にそれぞれ純粋化した多数の集団が、距離を持って併存する以外に手はない。これが、小さいクラスタに分裂すべきと主張している理由である。それは小さいクラスタに分かれ、クラスタ間のインタラクションを最小限にすることによってのみ実現できる。

異教徒も、一つのエリアの中でごちゃ混ぜになっていつも顔を突き合わせているから、宗教戦争になるのである。山の向こう側にでも住んでいて、よほどのことがなければ顔を見ることがないようになっていれば、何も諍いは起こらない。見えるから気になるのである。平和共存には、対立する可能性がある相手は、見えないのが一番いいのである。幸い情報社会になって、直接顔を合わせなくても経済関係といった合目的的なコラボレートは可能になった。

20世紀の産業社会の時代は、情報化が不充分だったので、嫌な相手でも直接顔を突き合わせないと経済活動等が不可能であった。顔を合わせれば、コンフリクトが起きる。だからこそ、20世紀は戦争の世紀となったのだ。大航海時代には、宗教的に異教徒との直接の接触が禁止されていたので、一定の場所にそれぞれの商品だけを置いて顔を合わせずに商行為を行う「沈黙交易」というスタイルがあった。それでもうまくいくのである。そして、情報化が進めば、それはもっとスマートにできるようになる。

そういう意味では、20世紀がスケールメリットを追求するグローバル、ユニバーサルの時代だとすれば、21世紀は民族主義の時代である。大きい政府より小さい政府。「大きいことはいいこと」なのではなく、「小さいことはいいこと」なのだ。大きくなればなるほど、無駄なコストが発生する。情報社会では、売り上げの拡大より、コストの削減の方が意味も価値も大きい。民族主義は小ささを目指す。そういう文脈の中では、移民反対のレイシストにも「いいレイシスト」と「悪いレイシスト」がいることになる。

排他的ではあるものの「相手の存在は認めるが、同じコミュニティーの中で共存すべきではない」という立場を取るのは、多様性を認めているので「いいレイシスト」である。移民がいて労働力として生産に関わるのはいいが、別コミュニティーで接触し合わないようにしろ、という意見である。その一方で、宗教対立等からの理由から「相手の存在自体を否定する」人達は、許しがたい「悪いレイシスト」である。自分だけが正しく、相手の多様性を認めず相手を否定し淘汰しようとするからだ。

ここから先は、多様性を認める「いいレイシスト」について語ることとする。現状においては、レイシストこそ反体制的になった。現状に不満があるものほど、民族主義化する。それはそれで一つの流れである。現状の社会への不満のはけ口こそ、反体制だからだ。かつての貧しい社会においては「左翼」が反体制の受け皿であった。それは、「左翼」が暴力的に現状を破壊するパワーを持っていたからだ。しかし経済の発展と共に「革新」は既得権擁護に回り、現状をぶち壊すパワーを失った。

余談になるが、20世紀前半の先進国の中でも「持てる国」では無産者のパワーは富の再配分という主張になったが、「持たざる国」ではそのような「はけ口」はなく、そのエネルギーは「破壊のための破壊」となり、ファシズムを生み出した。ファシズムは、民主的な無産者パワーの嫡子なのだ。情報社会にふさわしい社会制度を生み出すためには、いい形での「民族主義」を確立し、民族自決、民族並存を成り立たせなくてはならない。

まさに、21世紀の情報社会的なコンテクストにおいては、多様性を実現し、画一化に棹を刺すものこそ、民族主義なのである。これこそ、21世紀的秩序の根幹となるものである。そして、民族主義が21世紀的情報社会の新秩序であるならば、それを担保しあらまほしき方向へ導くカギとなるものは、自由主義、市場原理しかない。一見矛盾するようだが、これを矛盾と思う人は、20世紀的な産業社会の常識にとらわれているのだ。

産業社会では「嵩」を重視する。だから市場原理というとボリュームゾーンのショートヘッドの方に着目しがちだ。しかし情報社会的価値観から言えば、いわゆるロングテールを成り立たせるのもまた市場原理なのである。世界が全てロングテールだけになる。これこそ民族主義の行き着くべき姿であり、21世紀のあるべき世界である。これこそ、情報革命を経てはじめて人類が手に入れる理想郷である。それはもう目の前にある。20世紀の亡霊には早く別れを告げなくてはならない。


(16/12/23)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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