秀才に引導を渡せ





21世紀に入ってから、空気が読める人と読めない人という区分けがある種の差別のようになっている。数年前には「KY」という略語が流行語にもなった。では、空気とは何か。元々は親しい仲間内のコミュニティーなどで、隠語が生まれるのと同じように自然に生まれた仲間内のルールやタブーであった。それは、コミュニティーの掟を理解していない赤の他人が、コミュニティー内に乱入して雰囲気を壊さないための防壁として生まれ、機能しているものである。これは大昔からあった。

しかし最近問題になっているのはそれではなく、いわば「社会的空気」である。端から赤の他人ばかりが集まっているはずの社会において、言わずもがななものとして「空気」が問題視される。確かに誰も何も決めているわけではないし、誰かが暴力的に圧力をかけているワケではない。それでも、やっていいこととやっていけないことがその場で共有されている。だからこそ、空気なのである。

とはいえ、火のないところに煙は立たない。何かその空気を生み出す元となった原因があるはずだ。それは「社会的空気」が問題となるのは、必ず「責任のありか」が問われる時だというところにヒントがある。空気を大事にしている限り、責任の所在は曖昧になり、誰も責任を追及されない。すなわち、それは責任を回避することに、何よりも知恵を傾ける、無責任な秀才たちが、最初から逃げの姿勢をとることにより引き起こされているのだ。

マスコミがタテマエとしての正しさ、英語で言えば「political correctness」にコダわり、ここに抵触しそうなものに過剰反応するのも、誰がが圧力をかけているのではなく、責任逃れのための「自主規制」に起因する。かつての「言葉狩り」など、典型的な例である。解放同盟が「指導」したものではなく、テレビ局や新聞社が自主的に「禁止用語」を設定したことは、今となっては周知の事実だ。これも大手マスコミ企業には秀才が多く、その行動様式は霞が関の官僚とうり二つだからだ。

日本の不幸は、腹をくくって自分で責任を取り得ない人をリーダーの座につけてしまう社会規範があるところにある。日本社会が大統領制と相容れない理由でもある。秀才とは、偏差値だけで成り上がった無産者である。だから、有産者の家に生まれ育った人のように、自分が腹をくくって、責任を持って決断することができない。サラリーマンでも官僚でも、リーダーが責任を取らない。責任を取れない人には、対症療法はできても、抜本的な改革はできない。

日本の組織においては、小隊長的な人材は結構いるし、そういうまとまりはいい。だがそれはリーダーシップではない。戦術目標とその対応しかない。自分の持ち場を最適化する以上のことはできない。これでは敵を討つことはできても、戦いに勝つことはできないのだ。部分最適しかできない理由がこれだ。全体最適を実現するには、責任を取らなくてはいけない。だからこそ、秀才には戦略は立てられないし、全体を見ることはできない。秀才と責任、秀才と戦略というのは相矛盾するのだ。

いつも言っているように、貧しい開発途上の国家がテイクオフするためには、限られたリソースを最大限に活用し、先進国に追いつくために費用対効果が最大となる分野に傾斜配分して行かなくてはならない。これは、人的資源に於ても同じである。先進国の新しい技術や制度を効率的に学び取り、それを模倣することで少しでも早くキャッチアップする。この目的性があってこそ、秀才が重用されるのである。

すなわち、学業の成績がいい秀才がエリートというのは、あくまでも貧しい開発途上国が追い付き追い越すための一時的な手段に過ぎない。まさに日本においてはどんなに長く見積もっても、明治維新以降日本が名実ともに先進国の一員となった1980年代ぐらいまでしか通用しないスキームである。それ以外の時代やエリア、近代の先進国や前近代の諸国においては、腹をくくって責任を取れるのがエリートというのがグローバルスタンダードである。

もちろん日本でも、腹をくくれる人はいる。しかしそれは育ちの問題であり、教育や学習の問題ではない。人格形成の問題である。これこそリーダーシップである。見る目を持っているならば、こういうリーダーシップを持っている人を見分けることはできる。責任を取れる人、腹をくくれる人をエリートとして敬い、三顧の礼をもって迎えることができるかどうか。それは、社会の側の成熟度の問題である。

伝統を背負っている人間は、伝統の重さ、先祖の重さから、腹をくくらざるを得ない。先祖の残した「家訓」に、責任のとり方やリーダーシップが明文化されて残っている名家も多いが、責任感を自然に学ぶのが「帝王学」なのである。これに関しては、資産家と成金の違いが典型的である。先祖からの資産を受け継いだ資産家は、家の本質でもある資産を自分の代で減らしてしまってはそれこそ「ご先祖さまに顔向けができない、末代までの面汚し」になってしまう。

おのずと、自分で責任を背負い、腹をくくって決断する習性が身に付く。その一方で、成金はP/LとB/Sの区別がつかない。資産という発想がなく、すべてキャッシュフローベースの勘定しかない。だから「宵越しの金は持たない」で、稼いだ分を使ってしまう。財布にある金は使っていい、という発想しかない。金があれば使っていい。そこには金を使うことに関して責任を取ることはない。もちろん腹をくくることもない。

成り上がりの本質はここにある。責任をとらず腹をくくらないのだ。その一方で、秀才とは偏差値だけ成り上がった人達である。追いつき追い越せのためだけに登用された彼らは、追いつくべき目標がなくなると、その知的能力を自らが責任をとらず腹をくくらなくて済むようなスキームを構築するためにだけ使っている。それが「社会的空気」という亡霊を生み出している。秀才の重用とスケールメリットの画一性は、近代社会の遺物である。秀才と悪平等に死を!


(16/12/30)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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