勝ち組に差別なし





このコーナーでもすでに何度となく論じていることだが、差別やイジメに関しては「金持ち喧嘩せず」というのは古今東西を問わず共通する真理である。もちろん、結果として「金持ち」というか資産家・上流階級になれば、誰かを妬んだり恨んだりする理由が存在しなくなるということも言える。しかし、ここにはそれだけでは片付けられない問題も含まれている。

勝ち組とはすなわち「成功者」である。どういう形であろうと成功するためには、それなりの理由が必要である。努力と勢いだけでは当ったとしても長続きせず、「一発屋」にはなれてもコンスタントに「当て」る必要がある「成功者」にはなれない。成功するためには、成功者特有の才能やセンスのある人でなくてはならない。これは決して勉強や努力の成果ではない。ある種生まれながらの才能である。

もちろん、その才能を伸ばして成功ためには、才能のある人間なりの努力は必要だ。これまた言い古されたことだが、能力とは「才能×努力」である。この公式は同時に、「才能=0」の人間がいくら努力したところで、ゼロに何を掛けてもゼロ。能力はゼロのままということを示している。努力だけで評価すればそれなりの評価はできるが、結果としての能力で評価する限り、この掟から逃れることはできない。

そういう意味では、成功者である「勝ち組」にとって唯一の指標は、成功のための「才能があるかないか」これだけなのである。そして、成り上がろうと思って悪戦苦闘している人達ではなく、すでに成功をおさめた人々には、その違いがはっきりわかるのである。人々の間に差異があるとするならば、明確なのはこれだけ。成功に関しては、性別も、人種も、宗教も、性的指向も、障害も何も問われない。

さらにいうと、この指標にはユニークな特徴がある。成功者というのは、常に少数派なのだ。社会的に少ない椅子に座れたからこそ、成功と呼ばれる。従って成功のための才能に関しては、マジョリティーとマイノリティーの区別がそもそもない。それどころか、マジョリティーにいたのでは、成功者となることはおぼつかない。だからこそ、多数派が正しく少数派が異端だという一神教のようなドグマに陥ることがない。

負け組は、自分の中に拠り所がないからこそ、「多数」という数の論理にアイデンティティーを求めがちである。もともと「多数」という存在があるわけではない。百人百様で多種多様な人達を、十把一絡にして初めて「多数」というクラスタが生まれるのである。そのためには、人身御供としての異端が必要になる。というわけで、差別やいじめにうつつを抜かすのは、負け組である。

人は何故負け組になってしまうのか。もちろん、才能がないからと言ってしまえばそれまでなのだが、そんな単純なものではない。人間は、それが金になりやすいかどうかはさておき、なにか取柄はあるのである。そういう意味では、社会的成功に繋がるものではないかもしれないが、何かしら才能は持って生まれているのである。「業」の裏返し。これもまた天命なのである。問題は、それに気付いているかいないか、それを受け入れているかいないかにある。

それは、目の覚めるような著しい成功を与えてくれるものではないかもしれない。しかし、自らに与えられた天賦の才能に気付き、それを伸ばすよう努力することこそ、自らに与えられた運命だと自覚することが大切なのである。これが自助努力である。少なくとも、成功した人は才能だけで成功したのではない。才能に加えてそれをのばす自助努力をしたからこそ、成功を手に入れることができたのである。

ところがそういう自助努力をしないで、人に甘えてその好意にすがろうとする人が余りに多い。これは、宝の持ち腐れである。自助努力する人間には、機会の平等が担保されている。それは勝ち組が体現している。金銭的には、自分の持っている才能を伸ばすより、他人の好意に甘えた方が実入りがいいかもしれない。しかし、それでは人として腐ってしまうだけだ。だから、差別やイジメが起こる。この問題に関して一筋の光が射すのは、ここからだけなのである。


(17/02/03)

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