来来来世
マーティン・スコセッシ監督の「沈黙 Silence」がヒットし、話題を呼んでいる。江戸時代初期の禁教令が出た時代を描いた映画だが、17世紀から19世紀にかけて西欧のキリスト教国が、世界中を植民地化するとともにキリスト教の布教に努めた時代であった。日本においてもキリシタン大名など、戦国時代においてある程度の信者を獲得したものの、結局は禁教令で禁止できたことは、日本全体に影響を与えるようなものとはならなかったことを示している。
もちろん、中東のイスラム教やインドのヒンズー教など既存の宗教が強く影響力を持っていた地域では、キリスト教が取って代わりマジョリティーとなることはなかったが、改宗した一定数の信者は存在し、ある程度の橋頭堡としての影響力は確保した。東アジアでもそれなりの勢力となり、中国でもそれなりの影響力を持ち、特に清末の内乱では影の存在感を発揮した。韓国でのキリスト教の勢力の大きさはご存じの通りである。
当時の日本においては、浄土真宗など大衆レベルで信仰されていた宗教はあるものの、決して宗教が人生の精神的支柱だったわけではない。同様に「八百万の神」のような生活習慣と一体化したアニミズム的な自然信仰・祖先崇拝はあったが、それはキリスト教に対抗できるような体系化した教義をそなえた「宗教」とはなっていなかった。すなわち、強力な宗教や信仰心があるわけではない状態のところに、キリシタンが「攻めて」来たのである。
ある意味、経済力や民度、成熟度などの違いはあるものの、世界宗教的な信仰体系を持たないという意味では、宗教的にはカトリックの宣教師の前にひとたまりもなかった南米やフィリピンといった「スペイン語圏」と大差はなかった。しかし、日本はキリスト教を受け入れず、宗教的侵略の前に力強く立ちはだかり、宣教師たちを跳ね除けることができた。これは、宗教でない別の精神的支柱が強く日本人を支えていたからであろう。
同様の傾向は、近代以降の西欧化の過程においても強く見てとれる。「西欧に追いつき追い越せ」とばかりになんでも西欧の猿真似をしまくった文明開化の時代。鹿鳴館の舞踏会などという茶番まで繰り出すような精神構造なら、西欧文明の象徴としてのキリスト教こそ率先して取り入れておかしくないかったはずである。確かに明治期の一部の文化人にはその傾向は見てとれるが、それはあくまでも少数派であった。
戦後のアメリカ指向においてもこれは同様である。それまで銀幕の向こうでしか見れなかったアメリカ的なライフスタイルは、進駐軍として手に触れられるところにやってきた。若者を中心にアメリカブームが起き、ファッションとしてのアメリカンライフがもてはやされた。そのあこがれの対象はWASP的なものであった以上、ここでキリスト教(この場合はプロテスタントだが)がブームとなる可能性も充分にあった。
一部のリベラル志向のインテリ層には、確かにある程度の影響は見られたが、日本全体に影響を与えるようなものにはならなかった。パン食やコカコーラは津々浦々広がったが、「In God We Trust」としてアメリカ合衆国の支柱になっているキリスト教はプロテスタントといえども日本に定着することはできなかったのである。これはやはり何かファイアウォールとなる何かが日本人の心、日本の文化の中にあったからだと考えざるを得ない。
歴史的には、日本は中国を通して先進文明を取り入れてきた時代が長い。日本の主流となっている民族自体が、中国で文明国家ができて以降に大陸から日本列島に渡ってきた人々である以上、これはいかにも動かしがたい事実である。日本の宗教も、もともと中国から朝鮮半島経由で伝わったものだし、遣唐使と共に渡り最新の教義を持ち帰った最澄や空海のように、次々と新しい教義が日本に伝えられた。
そこで大事なのは、世界宗教においては、現世は苦痛、来世こそ幸せというのが教義の基本となっている点である。世界的には、現世は辛いものであり、来世で救われたいと思っている人達の方が多いのである。それは、気候的にも生活がキツい地域でそれらの宗教が生まれてきたことに基づいている。その一方で東アジアは気候が安定して生産力が高く、人々の生活も豊かである。当然宗教に求めるものも異なってくる。
東アジアに至って、世界宗教も「現世は辛いが来世で救われる」ためのものから、「信心すれば現世でもっといい思いができる」ものへと変質した。ある意味これは、マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で解いたように、東アジア諸国の経済発展の基盤となったことは間違いない。しかし、もともと現世が幸せだと思っているのは、世界の中でも、中国文化圏、東アジアの人達しかいない。
今でも世界宗教の信者は、早く来世に行って幸せになりたいと思っている。これがわからないと、聖戦の意味は解らない。これは余談であるが、東アジアの中でも日本は最も端に位置し、気候的にも安定し、生産力も高いエリアである。つまり、生活が厳しい地域で生まれた宗教というものが本質的に必要ない人達なのである。それは今に始まったものではない。世界的に見ても日本人は「宗教音痴」なのである。
別にこれは事実なのであり、恥じることでも悪いことでもない。ただ、自分達がそういう立ち位置にいるということを知ればいいだけのことである。世界的に見ても恵まれているのである。現世が幸せだと言える生活ができる人達は、世界でも珍しい。そして自分達はそれほど恵まれている。これを自覚すればいいのだ。開き直って、自分達は恵まれてるぞとイバった方がいいのだ。そうすれば世界が憧れてくれるに間違いない。
(17/02/17)
(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋
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