自由市場を生み出すもの





かつて鉄のカーテン越しに冷戦体制が築かれていたころは、マルクス主義的な経済学なるものも存在し、その理論においては資本主義の自由競争が結果として勝者総取りの「独占市場」を生み出すものとして捉えられていた。ここでも何度か論じたことがあるが、生前のマルクス自身は決して経済学を論じていない。マルクスは「人類の理想社会とは何か」を論じた哲学者であり、ビジョナリストである。

そのビジョンを一言で言えば、「社会が豊かになり、人々一人一人に充分な配分が行われるような社会が理想であり、そういう社会になれば人間は真に自由で平等になれる」というものである。決して社会主義プロパガンダではないし、それ以前に政治理論でも経済学でもない。これを社会主義の理論化してしまったのはエンゲルスの罪であるし、いわゆる社会主義的経済学も「エンゲルス経済学」と呼ぶべきものなのである。

まあこれは余談としても、エンゲルスの主義主張には多分に画一化・集権化への志向が強く見られ、マルクスが元々考えていたユートピア的な世界観と相容れないことは確かである。しかし、それが産業革命を経て社会構造が変わりつつあった当時、勃興しつつあった社会主義勢力の主張や理論とマッチングが高かった。このため、社会主義の原論としてエンゲルス編(決してマルクスの著作物ではない)の「資本論」が用いられた。

その後約100年に渡る社会主義の歴史が社会実験として証明したのは、資本主義、自由市場は多様性を擁護するが、社会主義の方が画一性を志向し独占を推進するという皮肉な結果である。開発途上国がテイクオフするには、傾斜生産方式のように限られた国富を中央集権的にコントロールし、自由な競争ではなく強制的に成長分野に投入することが効率的である。こういう「開発独裁」型の政権は、社会主義と親和性が高い。

だが、それは貧しくリソースの無い社会で経済成長を実現するための「緊急避難」であり、経済体制としては極めてイレギュラーなものである。それによって引き起こされた矛盾は大きいが、少なくとも巨大だが貧しい帝国だったロシアが、ソ連邦になって曲がりなりにも世界の一つの極たる軍事大国化できたのは、この社会主義というなの傾斜生産方式の賜物であろう。

とにかく多様性を担保し「ロングテール」が多数存在している状態の方が、完全競争は達成しやすいし、市場原理も貫徹しやすい。というより、ニッチやロングテールが(それも高付加価値市場として)存在することが、市場原理が機能している証なのである。市場原理は集中は生むモノの、独占は生まないのである。リベラルなインテリなど、いまだにここを誤解している人は多いが、実態は違うのである。

その一方で、社会主義のように、全体が画一化された状態では市場原理が働かない。ファシズムでも、官僚主義でも共通しているが、中央から全ての経済をコントロールしようと思っても不可能だし、強行すれば破綻が待っているだけである。あるレベルの経済力を越えたら矛盾が爆発し、経済発展自体がおぼつかなくなる。これを証明したのが、戦争の世紀たる20世紀の歴史である。

これを消費者の側から見るとどうなるだろうか。全体が画一化された状態においては、画一的で巨大なコミュニティーが一つ存在していることになる。このような状態では、経済発展は不可能ということになる。多様な小さいコミュニティーが多数存在している状態こそ、市場原理が働き、見えざる神の手による最適配分が実現される。こと経済という視点から見ると、フラットで巨大な市場は効率性はいいが成長性がない。

逆にダイバーシティーというか、細かく分かれた多様なコミュニティー沢山並立している状態なら、市場原理が大いに機能し、経済も発展する可能性を秘めている。こう思ってみると、意外と評価できるのが米国のトランプ大統領である。勘違いしている人も多いようだが、トランプ大統領の政策はロングテールを増やす方向を基本としていると捉えることができる。これはその主張をよく聞いてみればわかる。

貧しいレッドネックの白人が喜ぶリップサービスをしてはいるが、決してそれでかつての栄光が取り戻せるとは言っていない。白人が「自らの栄光」という主張を張ることにより、自信を取り戻すべきだと言っているに過ぎない。行き過ぎた「PC」が、白人の自信を失わせたのであれば、アメリカの持つ多様な価値観の一つとして、その行き過ぎを押さえる白人主義の主張があってもいいではないか。

一つの価値観に立つから、おかしくなるのである。市場原理とは、機会の平等である。結果として支持されるかどうかは、市場の審判を受けなくてはわからないが、それを受けるチャンスは誰にでも与えられる。だからフェアなのである。アファーマティブアクションのように、誰かに贔屓してもらって袴を履かせてもらうのは、一時的な対症療法としては意味があるが、決してフェアでないし何も解決しない。

社会を一つの価値観で染めようと思ったら、少数者には極めて不利になる。しかし、それぞれ別の価値観を持つ多様なコミュニティーが、バラバラに並存する社会ならば、少数者の権利はきっちり守られる。そして、そのような多様性を同じく必要としているのが、市場原理なのである。かつての公民権運動も、権利をくれくれではなく、「Black is Beautiful」という、自分達らしさを顕現する運動になってから実効を生んだ。

弱者ぶって「お上」からバラ撒き・施しを貰おういう姿勢でいる限り、本当の意味での平等は得られない。それどころか、画一主義・集権主義を利するだけである。自分達は、自分達だけで、自分達らしくできるんだ。その主張を社会に対してアピールできてはじめて、対等のマイノリティーとして、全ての存在を相対化できる。そして、そのきっかけを作れるのは、マイノリティー自身だけである。まさに「それ、三界は、ただ心ひとつなり」なのだ。


(17/02/24)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる