他人には評価させん





自分の価値は、なにより自分で決めなくてはいけない。自分の足で立ち、自分の責任で行動することが基本となるグローバルな価値観では、他人が評価する以前の問題として、自己評価が大事なのだ。自己評価をしたからといって、それをすんなり相手が呑むワケではない。現実的には受け入れないことの方が多いだろう。しかし、そのそも自己評価ができない人間は、他人から評価さえしてもらえないのである。

自己評価とは、コミットメントというか、KPIというか、自分を評価すべき軸を自ら提示することである。これがあってはじめて「好き嫌い」ではなく、その相手を評価できる。こうやろうと思っている、こうしようと思っている。それがわからなくては、評価のしようがない。ある程度戦略性が求められる。創発的に「なんだかわからないけど、偶然出来ちゃいました」は、結果に値は着くかもしれないが、人としては評価されにくいのである。

ところが日本人は多くの場合、自分からは働きかけず、他人に依存して評価してもらおうとしがちである。これはとりもなおさず、100%相手の権威に依存して、その評価した相手の名声やステータスに便乗して自分の価値を主張しようとしていることを意味する。これは、ある種の家元制度である。実力ではなく、権威への貢献度を評価するシステムである。まあ、実態を伴わなくても、こういう「様式」の方を大事にする世界があってもいい。

しかし、元来「実力」を問われなくてはいけない学界やスポーツ界などでも、この手の「家元」の権威が求められてしまうのが日本社会なのである。いわんや、官僚組織や企業には付き物の「派閥」も、実力ではなく「派閥への貢献度」が評価の基準になるという意味で「家元制度」の派生形であるということができる。逆に言えば「家元制度」的な価値観が基準になっているのが、「日本的組織」のアイデンティティーともいえよう。

さてこのように、他人に認めてもらおう、評価してもらおう、お墨付きを貰おうと発想は、どこに問題があるのか。それは、この価値観に立つ限り評価する他人や権威を模倣することが最も高い評価になってしまう以上、その他人や権威以上の存在になれないというところである。自分の外側にすでにある軸で評価されるのでは、新しい価値を生み出すことができない。まさに、「追い付き追い越せ」と掛け声をかけて模倣に励んでも、追い付けても追い越せないのと同じである。

かつてバブル期に「Japan as No.1」ともてはやされたことがある。今となってはある種の「褒め殺し」的な感じであるが、19世紀中葉以降、欧米先進国へのキャッチアップに最適化を図ってきた日本は、間違いなく「Japan as No.2」にはなったが、そこで止まってしまった。これは、自分の外側の他人の評価軸で自らを評価してもらおうと躍起になる者の限界を身を持って示したということができる。

グローバルな活躍には、即、自らの評価軸を持つことが求められる。そもそも他人に認めてもらうということがない世界と考えなくてはいけない。しかし日本の中にも、そういう領域はある。少なくとも、かつてあったことは確かだ。大企業からのスピンオフではなく、真の意味での自らの手で立ち上げたベンチャーの世界はそれだ。成功したべンチャーの創業者は、皆誰かの真似でない、自分ならではの評価軸を持っていた。

70年代の終わりから、日本では第一次ベンチャーブームがあった。アスキーや、ソフトバンクといった企業が生まれた時代である。それを引っ張った西さんや孫さんは大成功例としても、そこまで行かなくてもキチンと自分の会社を起ち上げ、同世代が定年になるまで安定的にソフト会社を経営している人達もこの世代には多い。それらの企業家の特徴の一つが、サラリーマンや官僚の家ではなく、自営業の家で育った人が多い点にある。

もともと日本においては、サラリーマンとして一生を送るのではなく、一旗揚げて一国一城の主となりたいというロールモデルがあり、高度成長期まではそちらの方が主流だった。大企業に勤めるよりも、自営で工場や商店、飲食店等を起業する方が、多くの人が目指したロールモデルだった。もちろん、そこまで成功できる人は限られている。しかし、そこを目指すマラソンに参加することが人生の目標だったのだ。

高度成長が進むとともに、その成果が全国津々浦々に広がり、大量生産・大量販売のバリューチェーンと、それを支えるインフラが出来上がった。それとともに、大量生産・大量販売という、スケールメリットを活用した大企業の時代がやってきた。他人のふんどしで相撲をとるような、他人から評価してもらうことで自分の価値を決めるというスタイルは、これ以降に一般にまで広がったものである。

ポイントは、自分を評価するのは自分だけということ。今から振り返ってみると、これがベンチャーの本質だと思う。そして、それは大量生産ではない自営業にも共通する本質である。大量生産・大量消費の大企業モデルが成り立たなくなった以上、人間の価値も大企業モデルと言える「他人頼り」は通用しない。かつての日本人には、自分の中に価値観軸を持っている人もそれなりにいた。その事実を理解し、踏まえるだけでも、自信と勇気が湧いてくるというものである。やればできるのだ。


(17/03/03)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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