メディアはその本質に近付いたか





英国のパフォームグループが手掛けるコンテンツ・サービス「DAZN」が、Jリーグと高額の放映契約を行い、そのニュース自体を新サービスのパブリシティーにして、センセーショナルなローンチングを日本で行った。当初はどうやってユーザを獲得するのかと訝しがる見方もあったが、フタを開けてみれば何のことはない。実はdocomoと組んでいて、docomoのスマホ向けコンテンツサービスとして基本となるユーザを囲い込もうという戦略であった。

これはメディアビジネスに関わっていたものにとっては、二重の意味で「やっと予言されていたことが実現した」ということができるだろう。その予言の一つは、「映像コンテンツは、回線さえふんだんに確保できれば、パケットで送られるようになるだろう」というもの。もう一つは、「ユーザにとっては、コンテンツが同じなら、それが何を経由しようと、どこを経由しようと関係ない」というものである。

「映像コンテンツは、回線さえふんだんに確保できれば、パケットで送られるようになるだろう」という問題は比較的わかりやすいし、立場に関係なく支持する人も多かった。パケット転送のためのインフラは、デジタルデータになっているものであれば、何でも利用可能である。コンテンツ伝送のための専用インフラではないからだ。だからたくさん使われ、スケールメリットが生まれ、どんどんコストが低下することになる。

TCP/IPの出始めの頃は、回線容量と転送速度の壁があり、大容量のデータ転送を行おうとすると極めて高コストとなった。それならばまだ、有線・無線によるアナログ送信の方が大規模同時配信によるマスレベルでの低コスト伝送が可能であり、競争力を持った。「電波利権」などというものが信じられていたのは、この時代である。しかしそういう時代でも、社会の情報化が進むとともにデジタル化が進み、コストの逆転がいつかは起こると理解されていた。

問題は、それを理解していたのが技術者だけで、官僚やビジネスマンはほとんど理解していなかった点であろう。その最たるものが、デジタルとアナログの鬼っ子である「地デジ」である。地上波という発想自体がアナログのものである。それと映像・音声のデジタル信号化を結びつけてしまうというのが恐ろしい。本当だったらテレビのデジタル化の時点で、「地上波デジタル」ではなく、IPテレビにしてしまえばよかったのだ。

「ワンセグ」なんていうチンケなインフラもあった。携帯向けテレビ放送として、一時はモバイル機器にワンセグアンテナがついていた。まあ百歩譲って「過渡期用」というか、工事期間中の「仮設の橋」みたいな存在としては役割があったかもしれないが、大容量のwifiが普及すれば、そんなものはトマソン物件化してしまうということは、リアルタイムでもわかっていた。というより、かつてのニューメディアブーム、マルチメディアブームというもの自体が、こういう勘違いから起こった幻想なのだ。

「ユーザにとっては、コンテンツが同じなら、それが何を経由しようと、どこを経由しようと関係ない」というのも、ユーザの立場になって「マーケット・イン」で考えればすぐにわかることである。日本シリーズは優勝チームにもよるが、各試合ごとに違うネットワーク系列が放送権を獲得しオンエアすることが多い。しかしどのチャンネルで見ても、同じように試合は楽しめる。これが成り立つ以上、チャンネルの違いが、インフラそのものの違いになっても何ら変わらないことは、思考実験で容易に証明できる。

もちろん送り手の側にとっては、自分が放映権を取らない限りビジネスにならないのだから、これは雲泥の差がある。しかし、それは送り手の勝手な論理であり、視聴者から見れば「中の人の勝手な争い」に過ぎない。それがユーザにとって何も意味を持たないし、何ら違いをもたらさないことに考えが及ばないというのは、あまりにプロダクト・アウト過ぎる。まあ放送局の経営は、「電波を出したら、あとは知らん」というものだったので、ある意味必然的な結果ともいえるが。

これは筆者が80年代からリアルタイムで論じてきたし、このコーナーでも20年以上に渡り力説してきた点であるが、バブル期の頃には、すでに「メディアに垂直統合はあり得ず、レイヤ別の水平統合しかありえない」というのは明確になっていた。80年代の放送業界でこれがわかっていたのは、もともと放送業界出身でなく、純粋に経営者としてのメンタリティーで放送を見ていた「鹿内Jr.」氏だけであった。毀誉褒貶の多い人だが、この点は評価すべきである。

そのあたりdocomoとDAZNの関係は、やっと正規化して来たともいえる。しかし、プレイヤーはキャリアと外資であって、放送業界ではない。そう、せっかくチャンスがありながら、自分が何者で、どこに立脚しているかがわからないがゆえに、みすみす優位性を捨ててしまっているのである。さらに言うならば、この組み合わせは大化けする可能性も秘めている。それは、ユーザのコンテンツニーズのツボにハマっているからである。

映像コンテンツから「積極視聴」という視聴態度が消えたことが明確になってから、もう20年以上経つだろう。コンテンツは暇潰しに消費されるのである。そして、スマホも暇潰しのツールとして利用される。スマホ向けの暇潰しコンテンツというのは、金さえ取れればブルーオーシャンなのだ。今までは、モバイル向けゲームが暇潰しの王者であった。それは電車の中でスマホを握っている人の画面を見ればすぐにわかることである。

その一方で、スポーツコンテンツは映像系の暇潰しコンテンツの最たるものであることも知られていた。箱根駅伝など、正月で暇を潰したい人がたくさんいる時間帯にリアルタイムでやるからこそ、視聴率が取れるのである。あんなものを全部録画してみるのは、陸上部の長距離系の選手とコーチだけであり、世の的にはコンマ以下のパーセンテージである。見始めると、暇な正月の午前中がバッチリ潰せるからこそ、暇人がみんな見るのである。

これらの変化は、インフラがベタになった時代になったからこそ実現したということができる。かつては人々にコンテンツを届けるチャネルが希少であった。だからこそ、つまらないコンテンツでもそれなりに視聴され、影響力があった。貧すれば鈍する。皆がひもじい思いをしている貧しい社会では、どんなにマズい食料でも、食べられさえすれば貪り食ったのと同じである。

今は、いくらでもプラットフォームがある。八方美人である必要はない。ユーザの心にジャストフィットし、大きな影響を与える方が大事。どちらかというと、自分だけ、自分達だけのメッセージと感じてもられるモノの方がよりアピールする。そういう意味では、内容は千差万別、極端だって良いのだ。その中からユーザの側で、面白いと思うものだけをよりわければいいのである。

そう考えてゆくと、これからのスマホの進化とは、コンピュータ・情報処理端末としての退化であり、より暇潰しのツールとして使いやすい「無線IPテレビ」になってゆくのだろう。もちろんインタラクティブではあろうが、上りと下りで1ケタも2ケタも容量が違う非対象性が強まるであろう。そしてそのコンテンツは、ショートヘッドとロングテールの二分化がさらに進むであろう。ハード機能としては3DとかVR系のものに注目が集まるが、役割としてはこういうことで間違いない思われる。


(17/03/10)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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