「会社に入る」ということ





最近若者の間で「正社員志向」が強まっている。本来は、正規・非正規の間での待遇面や差別的な扱いといった「差」をなくす方があるべき方向性だし、グローバルな流れに沿ったやり方である。しかしどうやら現状のヒエラルヒーを是認した上で、正社員扱いを求めるというのが、多くの若者にとっては共感しやすいようだ。これもまた、現状のスキームに満足し大枠を変えたくないという、安定成長期に育った若者の保守志向の表れである。

それと同時に、日本の企業に於て根強く続いてきた「会社頼り」信仰も一層強まってきている傾向も顕著になった。会社に入って、バッジを貰い肩書きの入った名刺を持つことで、なにか自分がスケールアップしたような誤解をしてしまう。それらによって、即、仕事ができてしまうように思っているフシもある。会社に入って会社人になるということが、あたかもモビル・スーツに乗り込むかのように思い込んでいるのだ。

しかし、会社に入ったからといって自分が変わるわけではない。「仕事ができる」人は、自分で自助努力してその能力を開発したのだ。会社に入れば、たちまち仕事をバリバリこなせるということはありえない。会社によっては、次々仕事が与えられることがあるかもしれないが、それは自分で仕事をしているわけではない。単に組織にぶら下がって頼っているだけの状態である。それで仕事ができていると思うのは、大いなる勘違いだ。

だが、このレベルの状態で何十年か勤め続けてしまう人が結構多いのも確かだ。このような「組織人」を生み・許してしまうのは、甘え・無責任で名高い「日本型官僚組織」の特性の一つである。日本型官僚組織は、個人に責任を取らせず、組織や肩書の中で責任をウヤムヤにしてしまう無責任体制に特徴がある。それは組織に同化し、個人の顔を消してしまうことにより実現される。その過程で組織に過剰に依存する心理が生まれてくる。

本来、会社と個人との関係はそういうものではない。資本主義社会の基本としての会社組織は、近代に入って西欧で生まれたものである。そこには、西欧諸国ならではの倫理観が反映されている。神との契約に於て個が確立している西欧先進国に於ては、自立した個人が会社と対等での個対個の契約をすることが就職である。有限責任の会社組織というのは、このようなバックグラウンドがあって成り立つものなのである。

近代資本主義社会における企業というシステムが西欧で生まれたものである以上、本来企業に就職することの持つ意味は、個人が企業の中に紛れこんでしまうことではなく、個人が堂々と企業を相手に回して対等に期待された役割を果たし合うことにある。しかし、日本においてはそういうスキームにはならず、会社のあり方は日本固有のガラパゴス的な「進化」を遂げてしまった。それには、日本の歴史的・社会的な背景が大きく影響している。

このコーナーでも何度か論じているが、江戸時代においては、有責任階級としての武士および一部の豪商と、無責任階級としての庶民とが明確に分かれていた。ある意味その構造を引き継ぎ、明治初頭においては、組織においてもリーダーが責任を取る分、メンバーは責任を取らなくていいシステムがおのずと作られた。リーダーは多くの場合武士階級か豪商出身であり、江戸時代の「棲み分け」をそのまま引き継いだからだ。

20世紀に入ると世代交代が進み、江戸時代に生まれたリーダーではなく、教育によって育てられた秀才エリートがリーダーとなるようになった。秀才エリートは必ずしも有責任階級の育ちではない。むしろ無責任階級出身で成り上がった者の方が多い。彼らは、エリートとなってリーダーシップを取る必要が生まれても、責任を受け止める気はさらさらなかった。そこで生まれたのが、組織に責任を押し付けてそこに所属する個人が責任を取らなくていいシステムである。

これの無責任構造は、20世紀に入り大衆社会化が進むとともに経済発展を遂げた日本においては、官僚組織、軍隊、企業と、あらゆる組織が巨大化・複雑化する中で、組織運営の基本パターンとなった。この無責任構造と、企業のモビルスーツ化は表裏一体である。企業人としての肩書のついた自分の行動には、個人としての自分は責任を取らなくてもいいからこそ、企業人になるだけで、強くなったように、偉くなったように思えるのである。

ガードマンや鉄道職員など、お客さん同士のケンカの仲裁に入ることも多い。かなり危険なシチュエーションになることもある。そういう時でも制服を着用しているからこそ、私服ではできないような毅然とした対応ができるという話はよく聞く。この場合は、制服が「モビルスーツ」になっていることになる。この場合は「モビルスーツ」も積極的にプラスの効果を生み出しているのだが。

そういう意味では、まさに肩書とは「裸の王様」の制服なのである。思い込みと幻想だけを生み出す。本人はいい気になっているが、第三者が客観的に見れば茶番である。日本の企業の生産性が悪い理由の一つは、この自分達の思い込みに基づく勝手な論理と評価というところにある。何も付加価値の生産を行わなくても、自分達は仕事をした気になっている。日本の組織がやっていることは、ほとんどマスターベーションなのだ。

もうこうなっている以上、既存の日本の組織を何とかしようとは思わない方がいい。組織に頼らない人間を増やす方が正解なのである。幸い若者の間では、気の利いたヤツ、本当に能力の高いヤツは、会社に入って組織人になろうなどと思わなくなってきている。いい傾向である。変化はこういうところからおきるのだ。兵糧責めではないが、誰も入らなくなれば組織はおのずと枯れる。まさに自業自得というものである。


(17/03/17)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる