フィクションの面白さ





映画の面白さは、いろいろある。見る人の数だけ楽しみ方があるということもできる。私にとっての面白さは、「現実ではありえないフィクションをリアルな映像として見れる」ところにあると思う。1人で300人の敵を撃破する、スーパーヒーローの現実にはありえない快刀乱麻の活躍もフィクションだから面白いし、宇宙空間で宇宙人と激戦を繰り広げるアニメやsfxもフィクションだから面白い。

これはもちろん、現代劇のドラマでも同じである。ロケで撮影すれば、リアルな人々、リアルな背景になる。渋谷の街頭でロケした映像に写る街並みは、作りものではなくリアルな渋谷である。しかし、そこでストーリーを展開するのはフィクションたる役者の演技であり、これはフィクションの醍醐味である。街頭で撮ったニュース報道やドキュメンタリーのフィルムとは違う。まあ、ニュースでも「ヤラせ」が問題になることが多いが。

もちろん撮影技法としては、役者の演技を長回ししたドキュメンタリー的なテクニックで撮影し、空気感も含めて映像化することもある。しかしこれは、あくまでもフィクションとしての演技を、そのまま忠実に映像化するための方法論であり、ドキュメンタリー映像を制作しているのとは違う。現実とは異なる「映画の中の世界」を作り出すからこそ、映画は映画たることができる。

フィクションが大切とはいっても、その「作り事」の度合いがストーリー上の矛盾となってしまっては、確かに興醒めになる。クルマが走ってくれば当然音がするので気がつくはずなのが、音なしにして気付かないことにしてしまうとか、現代劇のミステリーのトリックとしては使えない。もっともSF仕立てで、音の出るクルマと音の出ないクルマ(EVか)が併存する世界を設定し、クルマの接近に気付かないことから犯行には無音車が使われたというトリックなら有り得るだろう。

だからこそリアリティーよりも、雰囲気を盛り上げるための演出ならフィクションという枠の中で大目に見てもいいのが映画だ。独自の「世界観」をしっかり持っていて、面白くて、ワクワクして、その世界に引き込まれてしまうのが映画の魅力である。微細な部分のリアリティーは、そこに引きずり込むための手段であり本質ではない。ましてや、微細な部分にコダわりすぎると、大きい物語自体に入り込めなくなってしまう危険性が高まる。

ところが、マニアほど細かい考証に文句をいいがちである。特に鉄道ファンは、映画にいろいろクレームをつけることが多い。時代や地域によって、使われている車輌も違うし、職員の制服や所作も違う。そのストーリー上想定されている時代と、出てきた絵柄が違っていたりすると、鬼の首でも取ってきたように小躍りして狂喜する。しかし、そんなところはストーリーや役者の演技とは全く関係ない枝葉末節な問題だ。

また、かつてフィルムの時代は修正が難しいので、時代劇に電柱や現代の建物が写っていたり、別のテイクをついでワンカットにしたシーンでズレがあったりとか、コマ送りしないとわからないような瑕疵があったりしたが、これをことさらに強調する連中もけっこういた。確かにそれを発見した努力はスゴいとは思うが、それがあろうとなかろうと、役者さんが演技した映画そのもの感動が変わるわけではない。

背景まで細かく書き込んだ劇画も、シンプルな線画で描く四コマ漫画も、どちらもマンガという意味では同じである。大事なのは、世界観とストーリーである。それがしっかりと出来ていれば、表現手法はいろいろあっていい。芝居でも、リアルなセットを用意するものもあるし、現代アートのオブジェような抽象的なセットを使うものもある。表現という意味では、映画とて同じであるはずだ。

リアルと思わせてしまうのも映像の醍醐味である。しかし、余りにそれにコダわってしまうと、夢や想像力といったもう一つの映像ならではの面白さをネグレクトしてしまう。リアルに見える映像は、フィクションのファンタジックな世界へとよりスムーズにいざなう手段ともいえる。微細なディテールにこだわりすぎて、物語そのものが味わえないというのは、もしかするとコミュニケーション障害・発達障害の一種かもしれない。どちらも「オタク」に多いのは確かだし。


(17/03/31)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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