卑弥呼の鏡





俗に魏志倭人伝に語られた卑弥呼の鏡に擬されているが、考古学上「三角縁神獣鏡」と呼ばれている銅鏡は全国の古墳から多く出土している。邪馬台国自体の謎とシンクロするかのように、この鏡についてはいろいろな推理や議論がついて回る。それらの当否はさておき、もともと中国の皇帝が鏡を下賜する時の「モノ」としての価値から段々逸脱し、日本に来て鏡が神聖で霊的な存在であり、それ自体信仰の対象となってしまったということは間違いない。

モノゴトが人々の間に広まってゆくとともに、その本質から外れて段々形式的・観念的な価値や意義が重視されるようになり、最後には本末転倒でその抽象的概念の象徴として崇め奉られるようになるというのは、どうやら2000年以上前から変わっていないらしい。その頃とは、民族構成も、言語も、文化も全く変わってしまっているワケだが、この「業」だけは全く変わっていない。風土に根差した「島国根性」とでも言うべきだろうか。

実際、この「本質とは別のところで、形式を崇め奉る」という行動様式は、歴史上いろいろなところで見られる。たとえば「般若心経」などは、その代表的なものである。鳩摩羅什や玄奘といった高僧がインドから唐に伝えた時点で漢語に翻訳され、漢語版が遣唐使などにより日本にもたらされた。日本に般若心経が伝来した時点では、間違いなく「その内容をきちんと理解し、そこに書かれた教えによって救いの道を拓く」ものであった。

しかし仏教が大衆化し出した鎌倉時代以降、内容はすっ飛んでしまい、唱えることで救われる魔法の呪文になってしまった。これは、現代人にとっての「般若心経」の位置付けと同じである。特に般若心経には「ギャーティ ギャーティ バラギャーティ」というサンスクリット語をそのまま音訳した部分があり、漢字を見ても全く意味不明な分マジカルな香りが強いことも、この傾向に拍車をかけたかもしれない。

その後、この傾向はさらに強まる。浄土信仰の念仏「南無阿弥陀仏」や日蓮宗のお題目「南無妙法蓮華教」など、貴族や武士からより一般大衆へと信者が増えると共に、その言葉の意味を知って悟るよりも、その言葉を一心不乱に「唱えること」で救われるという信仰が鎌倉仏教の基本パターンとなっていった。鎌倉仏教こそ日本的仏教の嚆矢であり、ここでも「本質と形式の換骨奪胎」が日本化のカギとなったと見ることができる。

ここで重要なのが、一部の専門家だけのものだった時代は本質をキチンと学び理解する「修行」が行われていたが、大衆化する過程で形式をことさら重んじそれを鸚鵡返しに唱えることが、その御利益に預かる手段となってしまう点である。この傾向は、現代まで脈々と受け継がれている。いや、近代に入ってそれまでの階級構造が崩れ、20世紀に入って世界的傾向である大衆社会が現出すると、日本的大衆社会の特徴として、この形式主義化が一段と顕著にみられるようになる。

その最たるものが「反核平和運動」であろう。キチンと日本が核武装することのメリット・デメリットを定量的に計算し論理的に判断すれば、「デメリットの方がメリットより多く、現状においては核武装する意味はない」ことはすぐにわかる。本当に核兵器反対なら、そういう議論をすればいいのである。しかし「反核平和運動」は、そういうロジカルな議論を否定し、ひたすら「反核平和」のお題目を唱え続けるだけに終始する。政府の「非核三原則」も同じ穴の貉である。これなども、本質より形式を重視する精神運動の典型である。

奇しくも最近話題になっているが、「教育勅語」と「治安維持法」を巡る問題も、実はこの「本質と形式の換骨奪胎」にある。教育勅語も治安維持法も、批判する人ほどキチンと内容を読んでいない。それどころか「悪いものだから読む必要はない」などと嘯いたりさえする。しかし、教育勅語も治安維持法も、内容は決してアナクロなものでも危険なものでもない。それは、ちゃんと中身を読めばすぐわかることだ。

「教育勅語」や「治安維持法」に関しては、すでにこのコーナーで何度か指摘している。「教育勅語」は、19世紀の帝国主義時代の立憲君主国における教育の基本方針としては極めて普遍的なものであるだけでなく、ヨーロッパ諸国の同種のものと比較しても、後発で作られたものであるだけにより近代的な視点が取り入れられており、当時としては先進性を持っている。ある意味、今読んでも共感できるのはそれが理由である。この点については、教科書裁判で知られる家永教授でさえ高く評価している。

問題なのは、その意味を理解しようとせず、ただ唱えるだけで人格が形成されるかのごとくに「御利益」を設定してしまった人達である。これでは、折角の内容が伝わらない。しかし、日本人、それも大衆レベルでは、「内容を理解するのではなく、一心不乱に呪文を唱えると救われる」というのが好きなのである。そういう意味では、教育者が「教育勅語」を熟読しその精神を教育に生かすのはいいことだが、どこかの補助金詐欺のように子供に意味を伝えず唱和させるというのは、愚の骨頂である。

「治安維持法」にしても、この法律が施行された1920年代〜30年代においては、同種の「反共法」は、程度の差こそあれ欧米先進国においては、どの国も持っていた。当時はロシア革命でソビエト連邦が成立するとともに、各国内でも労働運動・無産者運動が盛んになり、今でいうテロリストである共産主義者の活動を押さえる必要があったからだ。日本の治安維持法も、条文を読む限りにおいては決してその範囲を逸脱するものではない。

問題は、今も変わらない日本の官僚の「運用主義」である。「運用主義」とは、法律の条文を厳密化するのではなく次々と拡大した解釈により運用することで、官僚の権益を拡大しようというものである。「治安維持法」が悪用されたのは、当時警察や公安の権力を握っていた内務官僚の権益拡大のために、どんどん拡大運用され、官庁にとって都合の悪いヤツを次々と「犯罪者」に仕立ててしまった点にある。

官僚達は、大衆から偏差値で成り上がった学歴エリートである。そして「運用主義」を実現する手段もまた、法律の中身に関する議論を封じ単なるお題目にすることで、条文の規定に縛られることなく変幻自在な解釈を可能にする「本質と形式の換骨奪胎」にある。こんな芸当も、日本の大衆は「お題目」が大好きで、なんでもすぐに「本質と形式の換骨奪胎」してしまう習性があるからこそ成り立つのだ。

こうやって見て行くと、昨今起こっている茶番劇の主犯が誰なのかはすぐにわかる。霞が関の高級官僚である。世の中が産業社会から情報社会に変化するとともに、秀才・偏差値エリートの化けの皮は剥れ、その居場所が危うくなっている。秀才・偏差値エリートは、最もAIで置き換えられる存在である。さすがにその危機が迫っていることは、彼らも気がついて焦っているのだろう。だからこそ、最後のあがきとばかりに勇み足を繰り返す。そういう思えば、このドタバタの意味も解ってくるだろう。


(17/04/07)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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