親学





親から子供へ受け継がれるものは、生物としての遺伝的な要因はもちろん、自我を形成するまでの生活環境が親により規定されることによるミームの要因も大きい。この中には、生活レベルや生活習慣といった間接的な影響もあるが、親が子供に対してどういう期待や指導をするかという直接的な影響も大きい。間接的な影響はコントロールしにくい(それでも無理して教育費を捻出する親もいる)が、直接的な影響は親の考え方一つで変化する。

子供のことを客観的・第三者的に見て評価できる人が親なら問題はないのだが、そういう親は少ない。特に母親には少ない。過剰に贔屓目な部分、過剰に厳しい部分が同時に並存してしまいがちである。全体を平均すればデッパリヘッコミで均されてしまうのかもしれないが、ことこの問題は桶の縁の板の問題と同じで、一番マイナスな部分により全体が規定されてしまう。つまり過剰に厳しい部分が問題となるのだ。

子供を客観的に見られない人は、決まって構造的な問題がある。こういう人達は自分自身についても、客観的・第三者的に見ることができないのだ。客観的という以上に、自分の中に自分を見ることのできる目を持っていないという方が適切かもしれない。自分だけでは自分を把握・理解することができず、他人との相対的関係の中でしか、自分の位置付けや可能性などを捉えることができないのである。

どうも日本人の中には、「集団の中に自分を置いてはじめて自分のことがわかる」タイプの人が、世界の他の国々と比べて多いことは間違いない。ところが家庭の中には、親と子供しかいない。これは大きな組織とは違い、自分のポジショニングを相対的に見せてくれるものではない。このため夫婦や親子の相対関係の中では、自分が何者であるかを把握することができないのだ。

子供は親の言うことを聞いて育つのではない。親の背中を見て育つのである。ある時は、ロールモデルとして、ある時は反面教師として。だから、子供は親の「言行不一致」を鋭く見抜く。だからこそ、自分ができないことをやれと命じるのではなく、まず自分がやってみせることが、子供の意識をそちら向けさせるための最善策である。自分ができなくとも、そこに向かって努力している姿を見せれば、いつが自分を追い抜いてくれる可能性が生まれる。

自分ができたことを足場とするからこそ、そこから可能性をもっと伸ばすことはできるのだ。ところが、自分に自信がないヒト、自分の足で立っていないヒトに限って、子供に過剰に期待する。そして、自分やできないこと、やれなかったことを、子供にやらせようとし強制しがちである。自分ができなかったことを、子供ができるはずがない。自分自身が見えている人ならば、子供にこんな無理強いをすることもないだろう。

これは、0を1にするのは無理だが、1を2にしたり10にしたりするのは決して不可能ではないということに基づいている。努力は、才能を持っている人が、その可能性を伸ばすためにやることである。才能は潜在的なもの。これを顕在的な能力にするには、多かれ少なかれ努力が必要である。いつも言っているように、「能力」とは、才「能」×努「力」の結果なのだ。

閾値まで達していないひとが、いくら遠吠えをしたところで、何も実現しない。0は何を掛けても0。無い才能は、どんなに努力しても手に入れることはできない。無い物ねだりをして子供に過剰に期待しても、それは所詮「高望み」というものである。これは無駄な努力だけ延々と繰り返される、賽の河原の石積みのような負の無限ループに陥るしかない。自分自身が見えている親かどうかで、子供はバッドサイクルに落ち込んでしまうのだ。

自分が背負っている業というか天命というか、それは変えようと思っても変えられないのである。無駄な努力をするより、素直にそれを受け入れて従うことが必要なのだ。親が子供に対して示せるのも、突き詰めればそれである。背伸びをしろ、成り上がれではない。高望みをせず、現状のいい所を見つけて、そこに幸せを感じるようにする。親自身がそういう生き方をすることが、最大の子供に対する教育である。


(17/04/14)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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