若者の特権





今の20代以下の世代は、「失われた十年」以降に生まれた世代。よく言えば安定、悪く言えば停滞の中で、成長や変化を知らずに育ってきた。社会全体が目まぐるしいスピードで変化している時代に育った人間からすると、「攻めない若者」と見えて仕方がない。世の中にニッチが見えたら、すかさずそこを攻めて自分のものとしてしまうというのは、余計な重荷を背負っていない若者ならではのフットワークがあってはじめて可能になる。

現状に不満があるときどうするか。その時は、自力で壁を突き破ろうとすればいい。既存秩序の外側に出てしまえば、やりたい放題だ。そもそも若者は経験が少ない分、秩序や常識に囚われずに済む。これが若さの特権なのだ。法律など守らなくていい。逃げ回ってバレなければいい。既得権力よりは、若者の方が小回りが利く。だからこそ、逃げれば逃げ切れる。法律や既存秩序を守って社会に守ってもらうよりは、逃げ足を鍛えるべきだ。

若者は、己のルールは自分で決めるべきである。それが人類の歴史を刻み、前に進めてきたパワーだ。誰かに助けてもらおうとした瞬間に、ユートピアは妄想の向こう側に消えてゆく。自分の力でブレークスルーを作ったものだけが、次のステージへの挑戦権を手に入れられるのだ。常に若者の不満は、既存のルールや秩序を破壊し社会を変革してきた。これがあるからこそ、社会は発展し、経済は成長する。

古い世代が決めたコトワリを守らないというのは、若さの特権だ。その特権を使わないでどうするのだ。既存の秩序に守ってもらおうとしてどうするのだ。自らの力で自らを守る。暴力を使ってもいい。自分の気に食わないものは破壊してもいい。これこそ、若者にだけ許された未来へのご朱印状だ。カビの生えた古い秩序や既得権益を壊して、新たな未来のスキームを作れるのなら、全て許される。

貧しく生きることに精一杯の社会では、他人を蹴落とすことでしか自分の居場所を作れない。そういう環境下では、若者のパワーは水を得た魚のように活き活きする。しかし、安定し豊かな社会においては、若者は不利だ。だからこそ、労働組合や左翼のように、分け前をよこせ、俺達にもバラ撒けという甘えの要求になってしまいがちである。今の日本社会におけるボリュームゾーンの若者の動きは、全くそうなっている。

だが違う。若さの強さはそこではない。既存の秩序をぶち壊せる暴力を持っているところにあるのだ。間違えてはいけない。若さとは、暴力なのだ。破壊力なのだ。既存の秩序を破壊できるパワーを、きみ達は持っている。これを使わないでどうする。上の世代に媚びて甘えてどうする。伝家の宝刀を抜くときは、若いときしかない。そしてそれを抜いたものだけが、ベンチャーとして自分の世界をクリエイトできる。

逆に若者がやってはいけないのは、革新政党や労働組合みたいに、反対のための反対、対案のない反対をすることである。そんな屁理屈は要らない。自分のやりたいことを、勝手にやってしまえばいいだけである。そうすれば、世界は動くのだ。守ってもらうのではなく、自分でやってしまえばいい。誰かに守ってもらおうと思う若者は、秀才と同じ。それでは、時代を拓く担い手にはなれない。

無謀とも思える勢いと熱情。それが若さではないのか。若さはバカさである。既存の秩序や価値観にとらわれず、自由に自分のやりたいことをやれるのが若さの証。ルールを守ることで、既存の権威に支えてもらおうと思った時点で、精神は老いている。これだけ社会が安定し、守るべきものが増えているのだから、何かにすがって既得権を守りたい気持ちもわかる。それも悪くはない。

しかし、だからといって他人の足を引っ張るな。自分は自分、他人は他人。それがなにより基本なはずだ。若者の特権は、他人を気にしないところじゃないのか。ルールを破る若者が、次の時代を築く。それは実は直接既得権を壊す話ではない。市場を拡大する話なのだ。既得権の外側で勝手にやる。既得権の外側で勝手に稼ぐ。それは手垢のついた既得権とは関係ない、新たなマーケットを構築することだ。

既得権にしがみついている理由は、そのマーケットの成長性に問題があり守りに入っているからである。いってみれば、既得権が幅を利かすマーケットは、すでにおいしくなくなっていることの証明でもある。勝手にしがみついていればいい。だからといって、見ず知らずの人が新しいことをやるのに反対するのはおかしい。それは、既得権に指一本触れるものではない。

逆に、そういうマーケットができた方が、新たな権益は広がる。さすがに秀才の官僚の方が、自分達の新たな許認可権のネタになるんじゃないかという視点から、そういう新しい権益にはかなり敏感である。そして、それをおいしく育てるまでは「規制緩和」とか「特区」とか言って、ウマく自分達の管轄に組み込んで新たな権益を作り上げることには積極的だ。まあ、マーケットが大きくなったらその時点で理屈をつけて、許認可の権益を作るのではあるが。

既得権にしがみついている守旧派人は、実は既存の領域に思い入れがあるのではなく、バラ撒きに預かりたいからこそしがみついている。シャッター商店街のやる気のないオーナーが典型だ。だから新しい領域ができ、そこで今まで以上にバラ撒きが行われるのであれば、ホイホイとそっちに歩み寄ってくる。自分で新たに始められないというだけなのである。だったら、別のところで勝手にやる人達の足を引っ張る必然性は全くない。

そこから生まれる可能性が、既得権とぶつかるものになるのか、新たな権益を生むかどうかは先の問題である。もし儲かったら、その果実はバラ撒いてやったっていいんだから、足引っ張ることないじゃないか。足を引っ張ろうとしても、実は何もできない。恐れることはない。黙って勝手にこっそりやっちゃえばいいのだ。日本社会のスローさは、もはやグローバルのスピードについてこれない。なら、グローバルのスピードで成功まで突っ走れないいのだ。これこそ若さのなせる技である。


(17/04/21)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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