我慢できない日本人





人間、なんでも我慢しさえすればいいということはないが、全く我慢せずワガママだけ押し通すようになったら、社会生活が成り立たなくなる。「公共性」とは、最低限の我慢は受け入れるということである。しかし、昨今は自分が高望みしすぎているだけなのに、待遇が悪いからといってすぐ職を辞め、その挙句に日本の最低賃金が低すぎるなどと偉そうに主張する人達が何と目立つことか。これなど私利私欲だけで、公共性・道徳心のカケラもない連中である。

もともと、日本の「庶民」は決してマジメでも勤勉でもない。ワガママで、自分のことしか考えない勝手な連中である。こいつらをマトモに働かせるには、「相互監視」のシステムを作って、誰かだけいい思いをさせないようにするしかない。高度成長期までは世の中のアベレージが貧しかった分、曲がりなりにも社会の中にこういうメカニズムがビルトインされてきた。それが豊かな社会になってから崩れてしまい、モラルハザードを引き起こしたのだ。

確かに世の中には、働いている人達を欺く詐欺のような企業がある。たとえば、しかるべき筋に代行して納めるべき社会保険料や源泉徴収税を払わず、その分を利益としてネコババしてしまう企業がけっこうある。またかつてのタコ部屋のように、働いている人を恫喝して金を巻き上げる企業も、21世紀の今となっても決して根絶されてはない。これらは犯罪であり、真の意味でブラック企業である。

しかし、最近の巷で言われるブラック企業のかなりの部分は、自分の思っていた仕事と違うというだけで、あるいは人間関係がウマくいかない(多くの場合、被雇用者の側のコミュニケーション障害に原因があるが)というだけで、「ブラック」だとレッテル張りされている。これなど3日で辞めずに、もう少し様子をみて可能性を見極めてみようという気持ちがあれば、また違う結論が生まれるかもしれない。

会社には異動というものがあるし、違う部署に移れば違う環境もある。その可能性を見極めてみようという気持ちがなくては、どんな企業に行っても自分が満足することはあり得ない。そのためには、最低限の我慢が必要なのである。この我慢ができないがゆえに、無用のコンフリクトが生まれ、多くの時間と資源がムダに消費されてしまっているのだ。我慢ができないことによる社会的損失は想像以上のものがある。

「安倍辞めろ」も「反原発」も同じである。自分が目指す理想的社会があるならば、現状に反対しても仕方がない。時間をかけてそれを実現するための努力をすべきである。そのためには、我慢が必要なのだ。しかしその我慢ができないから、反対のための反対に陥ってしまう。短期的な視点で反対しても、何も解決しない。長期的視点をもった改革は、実現するまで待つ我慢がなくては実現できないのだ。

義務を果たさず、権利だけ主張する輩は昔から多かった。左翼や組合、市民運動などにうつつを抜かす連中は、なんら自助努力をせず「よこせよこせ」しか言わない。義務を果たすとは、現状の問題を受け止めつつも、我慢して自助努力することでそれを解決しようとすることである。古今東西の歴史を振り返っても、人類にとっての新しい道は、常にこの先人の自助努力によって拓かれてきたものである。

自分より上位の誰かがいてその思し召しでバラ撒いて貰い、おいしい思いをしようというのは現状肯定につながり、改革にはつながらない。ある意味昭和の日本においてそのような動きが認められていたのは、「高度成長がいつまでも続いてほしい」という幻想が全ての人々の中にあり、高度成長という現状は誰にとっても肯定的に受け止められていたからに他ならない。

当時の革新政党の主張は、一言でいえば「俺達にもっと高度成長の分け前をよこせ」ということであった。これは社会の構造改革でも、新しい体制の提案でもなんでもない。現状の利権構造を認めた上で、その中に自分達も入れ込んでほしいという、極めて守旧的な主張であった。いつも主張しているように、55年体制の本質は対立しているようで保守と革新がもたれ合うことで、その利権体制と強固なものにしてしまうところにある。

思想信条の自由は重要なので、「我慢できない甘えん坊」であることも、それが他人に迷惑を与えない範囲においては自由であり尊重されるべきであろう。しかし、だからといって相手をしてもらえたり、ましてやバラ撒きに預かれるというわけではない。いわば「モテない男の、オナニーする自由」のようなものである、我慢できない人は、どんどんオナニーに励んでくださいな。もっともその間に、我慢ができる人、義務を果たせる人は、「お先に失礼」となりますが。


(17/04/28)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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