「マイルドヤンキー」の悟り





バブル期までの日本の消費マーケットは、基本的にピラミッド型の階層構造をしており、新しい商品やサービスは、まず少数のエッジで先進的な人達に受け入れられ、それらのアーリーアダプターがエバンジェリストとなり、フォロワーからマスに広まってゆくというモデルがかなり的確に当てはまっていた。このようなマーケットの構造である限り、トレンドリーダーさえつかんでおけば、そこからは高きから低きヘ水が流れる如く流行が広まると信じられていた。

このやり方が最も効果を生んだのは、バブル期と呼ばれた、今から考えれば高度成長の最終段階であった。この時代に於けるトレンドリーダーは、当時「ハイソ」呼ばれていた都市部の高所得層であり、このクラスタをどうつかまえるかがマーケティングの大きな課題であった。この後にやってくるのが「失われた十年」である。実はこの十年は日本社会が大きな構造変化を遂げた時期であったのだが、リアルタイムでそれに気付くことは難しかった。

ここで起こった変化は、大きく分けて三つある。日本社会は右肩上がりの高度成長から安定成長になったが、社会インフラの充実や民度の向上は全国津々浦々にまで広がったこと。産業社会から情報社会への変化が顕著になり、情報レベルでも地域差が小さくなったこと。そしてその結果として、地方に住む人ほど現状の生活への満足度が高まったことである。この結果、都市生活者と地方生活者の間でのキャズムが発生した。

ここで重要なのは、これが都市と地方とのキャズムでない点である。都市部の生活者でも、東京生まれ東京育ちのようないわゆる「ジモティー」は、その意識や行動において地方生活者と極めて近似している。自分の実家で育って、そこに根が生えている点では、この両者は共通している。いわば、「一旗揚げようと背伸びをして都会に出てきた」人達だけが、特異に孤立してしまったのだ。

00年代の日本ではこの構造が顕著になり、各種の意識・行動調査のデータからでも確実にこの傾向が読み取れるようになった。このような「新たなマジョリティー」となった人達を、当時私が率いていた電通の生活者インサイトチームは「ロードサイド」と呼び、博報堂のチームは「マイルドヤンキー」と呼んだ。特徴は、精神的に余裕がある分、意識下ではあるものの自信を持って自分の選択をしてしまう点にある。

地方出身者は、28歳になった先輩を見れば、幸せとは何かまざまざとわかってしまう。高校を出て地元に残れた人は、28歳になれば結婚して子供が二人、家を持って幸せな家庭を築いている。大学に進学して東京の大企業に努めた人は、28になっても残業に追われ、結婚もできず、ブラックだと叫ぶだけである。それぞれの年収では量れないものが、幸せの基準になっている。

「成り上がりたい」という上昇志向と成功者が投げかける上から目線が見事に呼応していたのが、高度成長期である。いつかは都会に出て一旗揚げる。多くの人がそれを夢見て、首都圏や京阪神地区を目指した。団塊世代の多くは、大企業の工場のブルーカラーとして集団就職で都市部にやってきた。高度成長期の年功給においては、大企業においては同じ年齢で比較すれば、大卒ホワイトカラーも高卒ブルーカラーもさほど手取りは変わらなかったため、彼等は「夢」と「成功」を手に入れたかのように高度成長に酔った。

ニュータウンにマイホームを買い求めて、核家族のニューファミリーを作り、子供には大卒の教育を与える。確かにかつての農村部での幼少期の体験と比べれば、ある意味外見的には「一旗揚げる」ことには成功したかもしれない。しかし、それでは幸せは得られないことを自ら証明してしまうことにもなった。その一方で、高度成長は未来永劫続くものではなく、バブル崩壊以降は横ばいの安定成長がベースとなっていった。

ここに至って、幻想を追い求めても幸せは得られないことが、誰の目にも明らかになっていた。いい学歴を得て、都会に出て出世するという構図は、単なる欺瞞であり、そういう「エリート」は「ハダカの王様」と化した。振り返れば、誰もついてこない。時代と共に「秀才モデル」が通用しなくなった背景には、このようなパラダイムシフトが潜んでいたのだ。

この時点では、こういう現象は日本特有のものであると考えられていた。ところがその傾向は、世界的に見られることが分かった。しかし、この1〜2年の世界の動きをみていると、日本だけでなく先進国においてはかなり共通していることが見えてきたのだ。確かに、安定成長化も情報社会化も、決して日本だけの現象ではなく、かつての「西側先進国」においては多かれ少なかれ共通したファクターだからだ。

トランプ大統領の評価はいまだに真っ向から割れるが、それはさておきアメリカの実態をきちんと示したという点については、どんな立場にあろうとも評価すべきだろう。サイレントマジョリティーであった「アメリカのアベレージ」を、声としてあぶりだしてしまったのだ。トランプ現象とは、エスタブリッシュとマジョリティーの間のキャズムの可視化である。こういう視点に立つと、共通の問題構造が見えてくる。

これによってあぶりだされたアメリカの真相は二つある。一つは、アメリカ人といえども自立しているわけではなく、「大統領」に自我を寄託して自分のアイデンティティーを保とうとする人が多いということ。もう一つは、アメリカ人にも「タテマエとホンネ」の二重構造がしっかりあるということ。つまり「アメリカンドリーム」とは所詮偽りであり、ついにその化けの皮がはがれた。

でも、それはいいことである。そもそもごまかしは、情報化社会には通じないからだ。であるなら、トランプ大統領の政策も「ロードサイド」のインサイトで理解できるはずだ。ラストベルトは、バラ撒きでは解決しない。そしてそのような原資は、もはやアメリカにもない。しかし「果して幸せとは何か」という問いへの答えをコペルニクス的に変換させれば、問題は解決するのである。強いアメリカイメージへの精神の寄託は、そのための方法論であろう。

自分の居場所を知って、その良さを捉えなおせば、住めば都でこの世の春である。青天井を望んでも、無間地獄の底なし沼が待っているだけである。ロードサイドの極意とは、まさに「三界は心ひとつなり」である。都会とローカルの戦いも、これで無力化した。高望み、成り上がりではなく、ほどほどに幸せで、ほどほどに充実した暮らしができれば幸せと思える。この境地こそ、ロードサイドの、マイルドヤンキーの開いた「悟り」なのだ。


(17/05/19)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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