Gallery of the Week-Feb.00●

(2000/02/25)



2/4w
寝食共存 宮前マキ展
Mole 四谷三丁目
宮前マキである。前にもここで取り上げたが、最初にその作品を見たときのショックから、注目し続けているアーティストだ。実は今週も相変わらず忙しいのだが、駅から近い会場だし、会場も狭いギャラリーらしいので、一撃離脱でアタックをかけることにした。しかし、この会場のMoleがふるっている。写真を中心としたアート書籍店の二階にあるギャラリーなのだが、これがいい。普通の民家だったところを、力業でお店にして使っているような感じなのだ。
玄関のような入り口から入っていく一回の売り場も相当なモノだが、二階がまたスゴい。トイレか台所かといった裏側のところを一旦通って、階段を上がってゆく。60年代末や70年代初めのロック喫茶とか、ブート屋とか、なんかこういう感じのところが多かったが、まさにそういうサブカルチャー感覚満点の作り。これが意図せぬ淫猥さに満ちている彼女の作品のイメージと見事にオーバーラップして、演出は充分。狭い会場で、限られた出展作ながら、ここからすでにインスタレーションになっている感じでいい感じ。
今回の作品については、被写体となった女性の生活の空間や時間に密着して作品を作り上げる、得意のスタイルである。中身については、何一つインフォメーションはなく、作品だけで生出し勝負というストロングスタイルである。画面の周辺情報から察するに、モデルは近鉄沿線(多分大阪府内か)に住む、SM嬢ということなのだろうが、例によってそんなことはどうでもいい。
相変わらずいちばん生な姿をリアルにさらけ出させているポートレートや寝顔の写真が、ヘアヌード(になっている作品)の何百倍かエロである。この生々しさが全てだ。とはいうものの、今回はモデルのアくが強すぎるせいか、ちょっと視線が引き気味か。この辺は今後に期待。アラーキー師匠だって、ウィークエンド・スーパー時代には、「人妻エロス」は撮れなかっただろうから。




2/3w
floating body -彷徨える身体- もとみやかをる展
TEPCOギンザ館プラスマイナスギャラリー 銀座
今週も忙しい。決して仕事が好きなわけではないのだが、きてしまうモノは仕方がない。ということで今週もない時間を工面して、近場で失礼せざるを得ない。いかにギンザには企業ギャラリーが多いといっても、そんなに頻繁に出し物が変わるわけではない。先週と変わらない状況では手も足も出ない。ということで、はじめてプラスマイナスギャラリーなるところへいってみた。当然、というわけではないが、「もとみやかをる」というアーティストについても予備知識は全くない。
会場には大小4つの作品が展示されている。実に寡黙な作品だ。大きさの割に主張が小さい。いちばん小さい「ヘアボール」が、いちばん雄弁にメッセージを訴えかけているぐらいだ。まあどの作品も、いいたいことは気持ちとしてはわからないでもないのだが、なぜかメッセージが内側を向いていて伝わってこない。これがもとみやかをるの持ち味なんだろうとは思うが、共感を拒否しているようでへんな感じ。時代の感じではあるけど、それならもっとそれを伝える表現はあるように思う。
つかみ所がない、つかみ所をつかませないやり方が、個性だし、表現なんだと思うけど、あくまでも「思う」なんだよね。ほんとにそうかすら検証させないとらえどころのなさ。ただそれで作品たり得るのかどうか、そっちの問いかけの方が重要かもしれない。シュレディンガーの猫ならぬ、シュレディンガーのオブジェ。確率的にしか表現してない(笑)。不確定性理論じゃないけど、つかまえたらその時点で別の表現担ってしまっている。そんな感じ。
そういえば、自走する「乳母車」のオブジェがあるのだが、あれを乳母車とわかり、乳母車がどういう目的で使われるかわかるヒトって、今どのくらいいるのだろうか。少なくとも30代以上のヒトでないとわからないかもしれない。それ以下の世代だと「ベビーカー」だろうし。そごうに行くと貸してくれるベビーカーは、かろうじて乳母車を想起させるのだが、アレがその形の最後だろうか。




2/2w
ブルーノ・モングッツィ展 形と機能の詩人
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座
今週は祝日で実働が4日しかない。年度末も段々近づいている。要は忙しいのだ。ということでない時間を工面して、手軽な近場で失礼してしまうことと相成った。とはいえザ・ギンザはこの前出してしまった。ということは、けっこう忙しい日々が続いているということなのだが。そんな次第で、今回はggg。スイスを代表する名デザイナーブルーノ・モングッツィのポスターを中心とする作品展だ。
オーソドックスなタイポグラフィーの可能性を、シンプルで基本に忠実なデザインコンセプトの中でフルに活かす。それが彼のデザイン流儀だ。美術展のポスターが出品の中心となっていたが、多様なフォントの利用と文字列の変形パターンで、見事に内容イメージを表現している。しかしこれ、どこかで見た感じがする。そうこれだけ並ぶと、DTPソフトの文字列加工機能と、実装しているフォントのデモを見ているような感じなのだ。
たとえばAdobe Illustratorとか、元が西欧圏で作られたグラフィックソフトでは、文字列のデザイン加工機能に違和感を覚えることが多い。できてほしい加工が機能としてない反面、あって当たり前と思う機能がない。これもやはり、アルファベット文字列を前提にした文字列の加工であるがゆえに、アルファベット文章としての認識を越えた加工はハナから用意されていない。しかし、グラフィックデザインにおける日本語文字列のデザインの余地は、もっともっとそれを越えた多様な可能性を秘めている。
そこには本質的な構造の違いがある。書道の「かな」もさることながら、自分の手書きのメモの再現性ということでも大きな違いがある。日本語、韓国語、中国語といった2バイト系の言語の場合、相当に荒れてとったメモでも、かなりの確率で復元が可能だし、意味の判別はもっとたやすい。その点英語のメモは、かなりきちんととらないと、あとで意味不明になってしまう。言語構造とかの問題もあるにはあるが、やはりそれぞれの文字の持っている情報量の違いがなせるワザだろう。



2/1w
猪熊弦一郎展
東京ステーションギャラリー 丸の内
昭和の日本を代表するアーティストの一人、猪熊弦一郎の生涯と作品を、その中心となったニューヨーク時代を中心に振り返る展示会。猪熊氏と言えば、なんといっても戦後すぐに創られた三越の包装紙のデザインで、一般にもおなじみだろう。また、90歳を越える長寿を全うした晩年は、リアルタイムで活動を知っているので、何とも愛敬のあるテーブルオブジェなども印象深い。しかし、実は時代と競って生きてきたかのような、昭和の芸術史そのものの生涯がある。妙にリアルタイムの部分を知っていると、なかなかそこまでイメージが拡がらないのも確かだが。
日本の20世紀の現代芸術の先駆者の中には、その生涯の中で近代の美術史そのものを駆け抜けたようなひとも多い。そういうヒトはなぜか日本画出身者に多い。彼はそういうアーティストの中では比較的後発の方ではあるが、珍しく西洋画出身だ。とはいうものの初期の作品を見ていると、なぜか日本画的な要素が強いのに気付く。確かにジャポニズムからモダニズムに続く、ある種の流れがあるのは確かだが、そこになにか必然的な因果関係があるように思えてならない。
しかしそれにしても、レンガに似合う抽象画だ。これほどステーションギャラリーの壁面とマッチした展覧会もはじめてだ。その時代、彼が創作を続けていたニューヨークの街角も、確かにこういう感じだし、それだけリアルな感覚を作品が持っているということだろうか。同時に、時代と共に微妙に変化しているその作風を見ると、予見がなくても、何年頃の作品かすぐわかる。時代の呼吸が伝わってくるからだ。この面でもスゴくリアルな作品であることがわかる。
やはり新しい文化の芽生えを、リアルタイムで担ったヒトはスゴい。何でもそうだけど、今さらながら痛感する。ぼくらがロックから離れられないのも、これなんだろう。けっきょくあの60年代末から70年代初めのうねりを、リアルタイムで呼吸してしまったから。そういういみで、見ていて妙にやる気が出る。死ぬまで創作を続けていたことも含めて。



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