Gallery of the Week-Mar.00●

(2000/03/31)



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さよなら20世紀 カメラがとらえた日本の100年
東京都写真美術館 恵比寿

世紀末企画シリーズの一環で、主として毎日新聞社の報道写真のアーカイブから選ばれたニュース写真を中心に、20世紀日本を振り返る写真展。昔、学校の掲示板とかによく張り出されていた、「なんとか写真ニュース」とかいう一枚一写真の、文字通りかわら版みたいなポスター形式のメディアがあったが、あれを生写真で1世紀分まとめたようなモノと思えば間違いない。あるいは年末恒例の、今年の十大ニュースを振り返る写真展の世紀末版といってもいいだろう。
写真は当然新たに焼いたものであり、報道写真という性質上、古いものにはデュープや修正しまくりのものも多く、いわゆる写真展とはかなり色彩が違う。当然見る方も、写真としてみるのではなく、その事件や時代を象徴する「記号」以上のとらえかたはできない。しかし、観光地に旅行に行って記念写真を撮るように、写真にはある種の記憶の記号としての役割も強い。これもこれで写真の役割には違いない。
そういう意味では、表現手段としての写真の対極にある、匿名性、客観性を引き伸ばし、焼きつけた印画紙である。いつも思うのだが、こういう企画展だと、基本的に「後半部分」はまんざらリアルタイムで知らないわけでもない事件やトピックが続く。余韻という意味まで含めれば、生まれた頃はこれから高度成長という、「敗戦」の陰を引きずっていた時期でもあり、ここまで入れれば、半分は何らかのリアリティーを感じる出来事だといってもいいだろう。
別にそのせいだけではないと思うのだが、やっぱり時代の変化というか伸びというか、どんなに甘く見積もっても60年代で終わっていることが改めてよくわかる。きっと後世の歴史家たちが20世紀を振り返ったとき、産業革命以来の近代が輝いていた時代もそこで終わっていたし、人々が近代特有の矛盾と対峙し悩まされていた時代もそこで終わっていたということになるのだろう。しかし話は変わるが、石原都知事の若き日の写真が展示品にはいっていたり、シンポジウムのパネラーとして登場したりと、気を使っているのか、ヨイショしているのか、なんか面白い。



3/4w
ランジェリーレスリング 五木田智央展
パルコギャラリー 渋谷

独特のタッチと、褒め殺しにも似た思い入れの濃いトーンで話題の五木田智央の作品展。その手の作品がパワフルに迫ってくるのかと期待してゆくと、いい意味で裏切ってくれる。圧倒的な物量で迫る、数百のモノクロの作品群。ある面では「期待」も間違ってはいないのだが、それを凌ぐ何かが会場に充満している。紙のサイズと、モノクロ作品という点だけが共通するその作品群は、見るものの前にはるかに大きな世界を提示してくる。
かかれている画題も、タッチも手法も、実に多様。ある種デザイナー、イラストレーターとしても器用なヒトだというのはよくわかるし、アートディレクター的な意味での、グラフィック上の発想や演出にも、長けたヒトだというのもよくわかる。でも、この多様さはそれだけではない。もっと奥深いところがすでにバラエティーに富んでいる。
紙と鉛筆、紙と墨。もっともプリミティブな表現手段だが、もっとも可能性が尽きない表現手段。これだけあれば、人間はまだまだ多様なメッセージを多様な方法論で伝えることができる。会場にあふれていたのは、そのパワーを再認識させてくれるパワーだったのだ。一枚一枚の作品はもちろんスタティックな作品だが、ここに集まった作品は、コマ送りの絵があたかも動画に見えるように、ダイナミックな作家の心の動きさえ伝えてくれる。
素直に描きたいように描く。ひねくれた現代美術を通り抜けた、ポストモダンの美術界のブレイク・スルーはそこにしかない。そして実際、その域に達しつつある作品を発表する作家も増えている。五木田智央もその一人だろう。アートは21世紀にも死なない。アートはディジタルの向こう側をも見据える。少し安心した。



3/3w
「レスタンプ・オリジナル」世紀末フランスの版画革命
ブリジストン美術館 八重洲

ブリジストン美術館が創立当初から積極的に収集していた、近代的な版画芸術の黎明期のエポックたるオリジナル版画集出版プロジェクト、「レスタンプ・オリジナル」の作品にスポットライトをあてた展覧会。それまで、今で言う印刷のように、芸術作品を「複製」するための技術手法としか考えられていなかった「版画」が、一つの表現形態として確立する画期となった作品群である。技術がいかに表現を得てゆくか、それ以前の技法のための習作に過ぎない版画が、作者のメッセージを語る「作品」に変わっていった道のりがよくわかる。
「オリジナル」というコトバが入っているが、まさに版画に芸術としての命を吹き込んだのはオリジナリティー。作者の心象からのメッセージが、版画に込められると共に、それが版画でなくてはできないような表現のトーンアンドマナーと結びついてはじめてアートになる。これは印象派の誕生と並ぶ、写真が起こした美術界に対するもう一つの変化ということができるだろう。
ヨーロッパにおける版画芸術といえば、ジャポニズム、浮世絵からの影響を無視するわけにはいかない。確かに構図や題材、技法など、直接的な影響が明瞭にわかる作品も多い。それだけでなく、寓意やパロディーのような感じで浮世絵や日本を引っ張ってきている作品もあり、こういうシャレの感覚も、まさに「江戸風情」そのものである。しかしそれ以上に重要な浮世絵からの影響は、市民層をターゲットとしたオリジナル芸術作品として「販売」するという、コンセプトそのものではないだろうか。
時代はアールヌーヴォー前夜。近代的な商業芸術とファインアートが分離する直前のことである。時を同じくして、版画技法を応用したポスターの全盛時代がやってくる。江戸文化は、市民文化であり、商業文化であるところが世界の歴史上特筆すべき点だ。そう考えれば、遅れて商業芸術が勃興しつつあったヨーロッパで、その先行形態としての江戸の商業美術たる「浮世絵」がブームとなり、いろいろな形でヒントとなったことは想像にかたくない
日本だって、もっと自信もっていいんじゃないの。独自の文化に。金儲けとか、政治的駆引とか、絶対にウマくないけど、オリジナルな文化、それも市民文化を生み出すことについては、かなりのモノがあると。この数年、台湾とかアジア各国で「日本的生活文化」が流行しているのも、そう考えてみると合点が行く。やっぱり、これが21世紀の日本の生きる道ではないか。ところで時代柄、印象派の人達も多く参加しているのだが、印象派の作風とは正反対のモノが多いのがなんとも印象的。その後のフォロワーと違って、最初のヒト達はやりゃできるんじゃない。



3/2w
聖地 日光の至宝
江戸東京博物館 両国

今回は、久々に電車に乗って見に行く。日光の至宝である。日光と聞くと、なぜかちょっと気恥ずかしくて、ちょっとワクワクする、不思議な響きを持っている。至宝というより秘宝、そう秘宝館に通じるノリなのだ。などと考えると、江戸東京博物館の「江戸」のイメージともフィットする。しかし、これは故なきことではないのだ。
世界中どこの国でもそうだとは思うが、東アジアの国々では古代における庶民と王朝の二重構造からして、建て前と本音の乖離が大きい。お上の建て前に対して、庶民の本音。このバランスの上ですべてが成り立ってゆく。当然文化も、王朝型と庶民型の二つに分かれる。宗教といえども、例外ではない。日本の場合は、土着のアニミズム的な自然信仰が根強く庶民に信仰される一方、権力層は世界宗教を受容し、それをまた支配のツールとしてきた歴史がある。
アニミズム的な自然信仰は、霊の住む森や山に対する畏敬の念となり、世界宗教の教義の影響を受けてからは、役行者に代表される山岳信仰を生んだ。そこでは神仏混交。御利益のあるものなら何でも拝んじゃうという、庶民パワーが爆発している。そしてなにあろう、日光は山岳信仰の聖地なのだ。そういう意味では、御利益のありそうなうさん臭さにあふれていてこそ。日光に感じるこそばゆさは、まんざら間違いではないのだ。
そしてそれに加えて、徳川家の葵の紋所のご威光だ。徳川幕府といえば近世日本ならではの、東アジアでは珍しい、王朝的要素の対極にある政権。これなら当然権現様になるわけである。というわけで、日光は世界の秘宝館にならざるを得ないのだ。長々と前置きを書いてしまったが、この事実があっさりと納得できる展示である。これはスゴい。
つまり、日光というと東照宮以降、江戸時代以降のものしか頭に浮かびにくいが、それでは日光はわからない。そこにいくまでのアニミズムから、山岳信仰までの長い歴史があって、その文脈の中で東照大権現がお出ましするという構図が、理解できる。それを実感できるいい展示といえる。江戸時代とは何かまで考えさせる深さがある。



3/1w
文化庁 メディア芸術祭
Robot-ism 1950-2000
草月会館 赤坂

メディア芸術祭だそうだ。文化庁である。公募による「メディア芸術祭」入賞作品の展示と、同時開催の企画展の二本建てのイベントになっている。「メディア芸術祭」は、デジタル系の「作品」と、コミックス、アニメーションの作品を対象にしたアート・フェスティバルである。平成11年度で第三回ということだ。各部門ごとにそれぞれ優秀作、入選作が展示されている。が、しかし、これはいかにも厳しい。枠組みのための枠組み、みたいになっている。マンガ、アニメ部門は、それぞれ対象の様式があるだけ、まだ比較し得る作品が競っているようには見える。しかし、その実はスポーツと音楽を、たとえば「イベント」という同じ視点でみているような構造的問題はあるのだ。
だが、それはそれとしても、たとえば「観客動員」という面では、巨人戦とストーンズと、どっちが東京ドームをいっぱいにするかという比較ができないことはないように、これらの領域ではまだコンテストとしての呈をなしている。同人作品だって、商業作品だって、少なくともマンガであることは間違いないから。しかし、デジタルアート部門となると、これは何なんだろう。デジタル技術は手段に過ぎないし、アウトプットからそれが見えるかどうかは全く本質外。くくりがはっきりしないモノに対して、何らかの評価ができるのだろうか。
手段としてデジタルを使うというのなら、99年版のイエローサブマリンのヴィデオとか、ブートから起こしたクリムゾンのライブとかどう考えるのだろうか。ぼくからいわせれば、ああいうのこそ、ディジタル技術の発展があってはじめてできた作品だ。ちょっと前の "Free as the bird" もしかり。まあ、文化庁ですから多くは期待しないけど、そもそも「審査」ができるのかいな、と思ってしまう。といっても、審査委員長が河口洋一郎氏だからね。そんなものか。
「Robot-ism 1950-2000」は、そんなことなので、あんまり多くは期待しないし、スカでも仕方ないやという気持ちでみてました。が、まあそんなものでしょう。誰に向けた展示なのかな。よくわからない。そんな中で、割りきれない気持ちをすっきりさせてくれた作品が、飯島浩二氏の「鉄犬」でかかっていたビデオに登場する「作品」。本物、というか生身の犬に鎧を着せて「ニセAIBO」にしてるヤツ。これ最高。まるで、このイベント自体のアンチテーゼだよね。ということで、これ見たから、今回は許す。鉄犬に救われた文化庁。




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