Gallery of the Week-Aug.00●

(2000/08/25)



8/4w
近くてなつかしい昭和展
江戸東京博物館 両国

なんか8月は、60年代というか、戦後昭和史というか、そのシリーズできてしまった感がある。まあ20世紀最後の夏だし、8月といえば少なくとも20世紀後半の日本では、第二次世界大戦と敗戦後を思い出すものいうのが、擦り込みになっているのも確かだ。おのずと企画がこうなるのも仕方がないことかもしれない。ということで、いっそこっちもそれに徹しようということで、その権化のような企画を見るべく、江戸東京博物館に向かった。
基本的には同館の収集物を中心に、戦後の子供たちの生活を思わせる展示で構成した展覧会だ。東海道新幹線の開通も、東京オリンピックも、みんな歴史の中の出来事になってしまったのは、充分承知している。今の小学生にとっては、35年以上前の出来事。自分が小学生のときの35年前の出来事といえば、世界大恐慌とか226事件とか、そういうレベルだ。自分の記憶の中でも、はるか彼方にいってしまっている。まさに歴史として振り返るべきものということも、じゅうじゅう理解できる。
でも、なんか違和感があることも確かだ。全て歴史は歴史だが、展示されているものの中でも、自分にとってなつかしいものと、自分にとっても歴史だったものとが混在してしまっているのだ。たとえていえば、長嶋選手はリアルタイムだが、力道山の街頭テレビは歴史ということになる。これは、渦中にいたものにとっては、いやいたものだからこそ感じるゆゆしき問題だ。
たしかに、すでに戦前に生まれていて、大人としてこの時代を過ごした世代や、それ以降に生まれて歴史として学ぶしかない世代にとっては、十把ひとからげで、それでいいのかもしれない。でも、昭和20年代と30年代は、世代論として決定的に違うのだ。この世代間の違いの問題、言い換えれば「テレビが家にやってきた」世代と、「テレビが家にあった」世代の隔絶は、21世紀に入ってゆゆしき問題になるだろう。それを分析するときには、この両世代の原体験、幼少時の擦り込みの違いが大きく問われることになると思う。とはいうものの、昔の味の素とか、食卓塩の瓶を見ちゃうと無条件になつかしいのも確かだ。イベントとしてはおもしろい、博物館の展示としてはもう一歩の突っ込みがほしい。これがホンネというところだろうか。



8/3w
横尾忠則ポスタア秘宝館
ラフォーレミュージアム 原宿

先週の寺山修司に続いて、今週は横尾忠則。何とも、純正60'sづいているこの夏である。天井桟敷のポスターという直接的な関係も深いが、そもそも純正60年代を形作ったアーティスト達は、マルチタレントの人が多い。当然、歴史をひもとくと、いろんな人が。いろんなところで接点を持っている。だからこそ、文化を創れたともいえるのだが、やはり無から有を創り出せた時代というのは、実に自由でクリエーティブだ。
この展覧会は、横尾忠則の主たる活躍舞台であった、ポスター作品を中心に、60年代から、現在に至る作品の軌跡を紹介するモノ。グラフィックデザイナー兼イラストレーター的な活躍をした作品に、オリジナリティーが発揮されるだけに、横尾ワールドがどう形作られ、どう完成していったのかがよくわかる。特に、版下が現存しているモノは、版下も同時に展示されており、グラフィックデザイナーとしての側面をしる上で多いに効果的がある。
物量的にも相当なものがあり、特に90年代以降のまるで作者の分身のごとくスタイルの完成した作品が、怒涛のような大群で迫ってくる後半部分は、息詰まるほどの迫力である。この面では、やはり現役のアーティストは強い。故人では、伝説は創れても作品は作りようがないからだ。そのせいか、観客は圧倒的に若い層が多い。しかし、並べてみると90年代の作品は、よくいえば完成している、悪くいえば縮小再生産ということが見えてしまうのも辛いところではある。
しかし、お盆休みの原宿というのは、聞きしに勝るものがある。タダでさえ東京を代表する観光地という色彩が濃いのだが、お盆休みはそれに加えて、東京の主役が観光客にとって代わる週間。あふれんばかりの観光客で、まさに異境の感だ。原宿ブランドのパワーは、日本各地から客を集めるだけでなく、東アジア各地からも人並みが押し寄せている。当然ラフォーレの館内も、観光客でいっぱい。まさにこのノリ自体が「秘宝館」という印象であった。



8/2w
寺山修司展 テラヤマワールド-きらめく闇の宇宙
小田急美術館 新宿

寺山修司というだけで、60年代にそれなりに時代の風を感じることができた人間にとっては格別の響きがある。ぼくみたいに、ほとんどその末期だけ、それも中学生レベルの「色気づき」でかすった人間にとっても、である。その圧倒的な「コトバの力」は、まさに歴史を変えるのではないかとさえ思えた当時の「時代の風」のもっていたパワー感そのものだ。これは、天井桟敷のポスターに代表される、まさに時代の生き証人たる寺山修司記念館の収集物と、寺山修司のコトバそのもので構成された回顧展だ。
なるほど、会場は「その時代の空気の臭い」があふれている。若いファンも散見するが、中心になっているのは、団塊の世代を中心とする、まさにリアルタイムで寺山フォロワーだった、オジさん、オバさんたちだ。もちろん、自分自身もその中に入る意味で。演劇が、空間を共有している「観客」をも構成要素としているのと同様、見にきているかつてのフラワーチルドレン、その実、40代50代のオジさんオバさんを含めて成り立っている空間になっているということは、それなりに成功した構成ということができるだろう。
しかし、だからこそ面白いことに気付いた。ぼくらからの世代からは、その時代リアルタイムには、せいぜい団塊の世代までしか見えなかった。そして、すべては団塊の世代が仕組んだモノのように見えていた。しかし、それにしてはそれ以後の団塊世代の所作は、あまりに腑甲斐ない。そして、彼ら、彼女らの「ニューファミリー」の生み出した団塊二世は、もっともっと腑甲斐ない。あれだけのパワーがあったはずなのに、どうしてこうなってしまったのか。それが長いこと疑問だった。
しかし、それが単なる勘違い、それもリアルタイムで見たからこその勘違いであることがわかった。団塊の世代は、単なるフォロワーであって、クリエーターではなかった、それだけことだ。戦後文化の創始者は、焼け跡から育った60年安保世代だったのだ。ただ、激動の時代を末席から見ていたぼくらからすると、団塊の世代の数の多さに紛れて、本当の前衛が見えなかっただけだったのだ。すべてが無に帰した戦後の混乱から、すべてを創り出したその世代こそ、本当にクリエーティブな世代だったのだ。なにか、長年のモヤモヤにキレイに整理がついた気がした。



8/1w
日宣美の時代 日本のグラフィックデザイン1951-70展
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

現代日本のグラフィックデザインを語るときに欠かせない、日本宣伝美術会。そのあゆみを毎年行われていた日宣美展の代表作で振り返る展覧会。日宣美は、1951年から1970年まで20年間続いていた。この20年はグラフィックデザインに夢があり、日本のデザインビジネス、いやグラフィックデザインそのものが確立しつつあった時代そのものだ。その時、若手デザイナーの登竜門として位置付けられていただけに、各年を代表する商業作品を並べたのとはまた異なる、それぞれの時代のパワーが伝わってくる。
さすがに50年代の前半は、手法もタッチもトーンも、戦前のポスターの手法を踏襲するか、海外の作品のトーン&マナーを取り入れたモノが中心だ。個々には面白い要素も感じられるが、いかんせん時代を感じさせる。しかし、50年代半ばになると、オリジナリティーあふれる作品群が現れる。世代も時代も変わってきたことが見てとれる。そして、いろいろなトライアンドエラーを経つつ、60年代後半になると、今に通じるような方法論がそろってくる。実際この頃になると、今でも業界のビッグネームとして活躍している人達がズラリと揃ってくるのだが。
そういう意味では、この勢いも存在感も、業界がエスタブリッシュされるまで勃興期ならではのモノということができるのだろう。どんなモノでも、表現性のあるモノはみんなそうだ。ロックだってビッグビジネスになるまでの「ロックリヴォリューション」の時期が一番スゴかった。ゲームソフトだって、パソコンゲーム時代がいちばん生き生きしていた。すべてが手作りで試すことができ、あらゆることをトライできるというのは、そういう時期にだけ許されたチャンスともいえる。
広告というのは、夢がなくちゃ意味がない。暗いアドマンというのは、世の中に存在意義がない。クライアントが皆暗く考え込んでいるところに、ポジティブ・シンキングの風を吹き込み、コロンブスの卵で発想の転換を生む。それが、そもそもの存在意義ではないか。そのワリに、最近の業界はクライアントといっしょに考え込んでしまうヒトが余りに多い。業界自体がが若く、夢があった時代を見るにつけ、いやが上にもそう思ってしまう。これじゃいけない。今さしかかりつつる大転換期は、新しい可能性を生み出すチャンスの時期と考えなくてこそアドマンではないか。なかなか勇気づけてくれるものがある。



「今週のギャラリー」にもどる

はじめにもどる