Gallery of the Week-Sep.00●

(2000/09/29)



9/4w
ブルックリン美術館所蔵 印象派フランス-アメリカ展
伊勢丹美術館 新宿

アメリカの美術館の中では、ボストン美術館などと比べると、日本での知名度は比較的薄いものの、実はアメリカでも最大級の規模とコレクションを誇るブルックリン美術館。その幅広いコレクションの中から、密接な相互関係を持ちつつ成長した、フランスとアメリカの印象派の作家達の作品を紹介する展覧会。そもそも発展する経済をバックに勃興した、19世紀後半のアメリカの美術市場は、同時代的に起こりつつあった印象派にとっても重要な市場であった。これは、アメリカ人好みの画題、画風も含めて、印象派のあり方に大きく影響するとともに、その後のアメリカ美術のスタイルにも大きく影響した。いわば、そのルーツをたどる展覧会ともいえ、美術において「アメリカ的なるもの」が生まれてゆくプロセスを体験することができる。
とはいうものの、やはり印象派はぼくにはしっくりこない。とにかくぼくにしてみれば、「そんな風には見えない」のだからしょうがない。ぼんやり目に入った風景をそのまま、という画題については、たとえばスナップ系の写真とかでは撮ったりするし、その意味性の薄さがどうこうというつもりはない。しかし、あの色については、そう見えないのだからしょうがない。でも、日本では人気は確かにあるようだ。アメリカと日本で人気というと、なんか野球みたいな感じもするが、つきつめれば何かあるのかもしれない。
しかし、チケットやフライヤーを見ていて面白いことに気付いた。印象派的な作風の絵は、縮小して印刷すると、実に生き生きとしてくるのだ。少なくともぼくにとっては。キャンバスの上では、どうにも散漫で文字通り焦点が定まらず、色調もズレ・ニジみがかかったようにしか見えない作品も、ピリッとしまった感じになる。そういう意味では、基本的に手のひらの中に入ってしまう、コンタクトプリントレベルの情報量しか持っていない作品を、極端に大きく引き伸ばしたモノなのだろう。この「希薄さ」もまた、ぼくにはしっくりこない理由なのかもしれないという気がしてきた。



9/4w
平成大修理完成記念 京都大原三千院の名宝展
東武美術館 池袋

今週は久々の仏教ものである。比叡山に連なる門跡寺院というよりは、京都大原の観光名所として知られた三千院の宝物をあつめた展覧会だ。三千院自体の歴史は、最澄上人にまでさかのぼるほど古いのだが、歴史の中でその所在地も、位置づけも、いろいろ変化の多い寺院でもある。そのせいか、名前こそ有名だし、歴代の天台座首を何人も輩出してきたワリに、今一つインパクトが弱い。「三千院ならこれ」という、定番の見せ物には、ちと欠けるところがある。
しかし、さすがに格調が高いというか、教典をはじめとする典籍類や、由緒のある仏画など、書画のたぐいが中心となっている。どちらかというと美術館というより博物館。美術品としてより、資料性が高い宝物ばかりだ。おいおい、気軽に見て感じるものがあるというワケにはいかない。しかしそれだけになかなか見るチャンスが少ないともいえる。そういう出展内容を反映してか、観客も年配の男性中心で、一般の仏教系の展覧会とは一味違っている。
しかし、やはり大原は、あの周囲の環境があってはじめて絵になるもの。はっきりいって地味過ぎる。建物も、よくいえば景色に溶け込んでいるともいえるが、ストレートにいうならば、寺院建築としては存在感がなさすぎる。もっとも、大原のほうがメインになったのは、明治以降のことなので仕方ないといえば仕方ないのだろうが。門跡寺院は、質素な中に格調があるものだが、その心を知るという意味ではいいのかもしれない。でもちょっと寂しい気も。



9/3w
ポラロイドコレクション アメリカ写真の世紀
東京都写真美術館 恵比寿

インスタント写真の発明した技術者にして、それを事業化しポラロイド社を創業した起業家でもあるランド博士はまた、多くのアメリカを代表する写真家や現代美術家を後援し、多くの写真作品を制作させ、ポラロイドコレクションとして収集してきた。これはその作品の中から、代表的な作家の作品を集めて、戦後アメリカの写真芸術を振り返る展覧会だ。写真作品とはいうものの、そこには当然「ポラロイドシステム」を利用して制作したという条件が付いている。これは一面制約ではあるが、一面作品群としてのトナリティーを持たせる要因ともなっている。つまり、フイルムがあって、そこからプリントしてというプロセスのある一般の写真作品とは違い、レンズを通って結ばれた像自身が作品となるのだ。これはいくつかの特徴を生む。
まず一つは、絵画と同様の同時性、同空間性である。作品そのものが、作品の作られた現場にいた。絵画では当たり前のこの同一性は、通常の写真では担保されない。しかし、ポラロイドはそこにいなくては絵にならない。作家の精神性という意味では、この差は大きい。自画像的な作品が多くなるのは、このためだろう。次に機材的な問題がある。民生用のポラロイドフィルムを使った作品もあるが、展示するような大きな作品にするには、そのサイズの像を作るカメラがなくてはならない。これは一般の写真作品においてアイディアのモチベーションとなる「機動力」を奪う。おのずと作品は、静物や風景、ポートレートなどとなってくる。
結果的にこれらの要素が、通常の写真作品以上に「絵画」的なモチーフを多用する結果をもたらしている。しかし、もともとアメリカ人はそういう写真が好きだったりする。不思議な一致だが、それが何かコレクションにアイデンティティーを持たせるとともに、その価値を、さらに高めているような気がする。もともとポラロイド写真という存在自体が、極めてアメリカン・ライフっぽい「ノリ」を持っているが、このシンクロ度は一体なんなんだろう。日本人がポラロイド使ってもそうはいかない。なんか、違和感がつきまとうのだ。日本人なら、プリクラを使って芸術作品を作るみたいなのだろうか。
それにしても、24×20なんていう大判のポラロイドフィルムは、その存在感だけでものスゴい。多分、フィルムの技術開発的な要素も含めていろいろなアーティストのニーズに応えていたのだろうが、いってみれば、コンタクトレベルの粒状性でこの大きさの作品というのは、グッと近づいて凝視すると相当なインパクトがある。そういう意味でも、表現媒体として、一般の写真とは違うものがあることはよくわかる。でも、50年近く前のポラの作品も、変色しないでキレイにのこっているっていうのは、別の意味でスゴい。これ自体、ポラロイドシステムの技術のパブリシティーでもある。個人的には、こっちもびっくりした。



9/2w
所蔵作品による 写真と美術の対話
東京国立近代美術館 フィルムセンター展示室 京橋

今週は忙しいので、手近なリソースで対応せざるを得ない。というものの、銀座周辺で適当なネタがないので、ちょっと足を伸ばして京橋へ。近代美術館が休館の内は、フィルムセンターでそこそこのネタをやっているので、こういうときには便利だ。ちょっと散歩の気分で、足を伸ばして京橋まで。
今回、フィルムセンターでやっている展示会は、改装休館中の近代美術館の収集作品による、20世紀の美術と写真のインタラクションの流れを振り返る企画展。確かに、印象派以降の美術は写真との関係性を抜きにしては語れない。もっというと、絵画が産業的な部分から脱し、美術として確立する上でも、写真の登場はただならぬ影響があったわけだが、こと20世紀という時期においては、表現手段としての写真と絵画は、新たなフロンティアを相互に求め続け、結果美術の領域をひろげてきたという歴史がある。その部分にスポットライトをあてた展覧会だ。
とはいうものの、その相互影響関係はそんなに簡単に語り尽くせるモノではない。ましてやフィルムセンター展示室の限られたスペース、収集品という限られたソースでは、見せられるモノも限界がある。それでも、テーマを絞っている分、それなりに相互影響の流れは理解しやすいともいえる。キュレーターも企画に苦労してるだろうな、というのは非常によくわかる。
とはいうものの、なんと入場料は100円という、超破格値段。これでは会場要員のコストも出ないのではないだろうか。それを考えれば勉強にもなるし、それなりに楽しめるだろう。近代美術館の常設展でおなじみの作品も、なつかしい感じがした。



9/1w
マックス・エルンスト 彫刻・絵画・写真-シュルレアリズムの宇宙
東京ステーションギャラリー 丸の内

シュールレアリズムを代表するマルチ・アーティストであるマックス・エルンストの、彫刻オブジェや版画、コラージュ等の作品を中心にした、普段目に触れることの少ない秘蔵の作品も含めた展覧会。ある種の愛敬を放つ一連の彫刻は、独特の作風を持っている。今回の作品群では、妻へのプレゼントとして作り続けたDシリーズを除き、あまりシュールレアリズムという感じのする作品は少ない。その分、主張の少ない作品が目立つ。
それを差し引いても、なんというか、はっきりいってピンと来ないのだ。ゆずりにゆずれば、「まあ、気持ちはわからないでもない」程度のコトは感じるが、制作意図というか、何が創作意欲なのか、皆目見えてこない。だから、シュールレアリズムなのかもしれないが、ふつう、もう少しは感じるものがあるものだが。なんというか、ぼくはアナグラムで面白がるヒトの心理がわからないのだが、それに似ているかもしれない。このヒトはこれがしたかったんだろう、ということはわかっても、そのモチベーションなでは思いが至らないのだ。
それは活躍した時代の時代背景なのかもしれないし、まわりのアーティストとの関係性の産物かもしれない。とはいうものの結局、人間の類型が違うんだと思う。表現欲の動機が違う。そうなれば自分にとっての作品の位置づけも違うわけだし、理解できなくても仕方ないのかもしれない。しかし、ある程度名が知れているヒトで、これほどまでに「ズレ」を感じた作品展はそうはない。これはこれで、ぼくが自分自身を知るためには、けっこう役立ったような気もするが。



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