Gallery of the Week-Nov.00●

(2000/11/24)



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マッキントッシュとグラスゴースタイル展
伊勢丹美術館 新宿

日本でマッキントッシュといえば、一にパソコン、二にオーディオ、そして知る人ぞ知るのが椅子。これはその椅子のデザインでおなじみのイギリスの建築家、C.R.マッキントッシュを中心に、グラスゴースタイルの中心的存在であった、ザ・フォーと呼ばれる、今世紀初頭に活躍した4人のデザイナーの先駆的な業績を振り返る展覧会。モダニズムの夜明け前ともいえる、そのデコラティブさと機能性のアンビバレントな関係は、ポストモダンブームになってから、先祖返りとも言えるイメージさえ持って受け入れられている感がある。
さてグラスゴーといえばスコットランド。英国とはいってもイングランドではない。もっと地場に根ざした伝統的なケルト文化の影響が強いところである。ある種、このケルト色というのが、いろいろな意味でイギリスの文化の独自性の源となっている。非キリスト教的なもの、非ヨーロッパ的なもの、という感じさえする、ユーラシア大陸の伝統的などろどろしたものがそこここに感じられるからだ。いい悪いを越えて、「なつかしい」領域といえばいいだろうか。
特に、日本人にとっては、他のヨーロッパ文化以上にイギリス文化に親しみがわくというのは、この影響が大きい。音楽でいえばブリティッシュロックだ。ロック発祥の地であるアメリカのアメリカンロックより、ブリティッシュロックのほうが肌合いがあうという人は、ぼくも含めてロックファンには根強い傾向だ。これも、イギリスのロックミュージシャンには、アイルランド系やスコットランド系などそっちの色合いが濃いことも考えるとまんざらハズレてはいないと思う。 実際グラスゴースタイルのモチーフをアルバム等のデザインに使うミュージシャンも、ツェッペリンをはじめ多いが、グラスゴースタイルももともとそういう色が濃い。遅れてきたジャポニズムというか、独自の消化法で東洋的なものも取り入れ、そのあたりがまた、マッキントッシュの日本ウケがいい点だろうか。モダンと伝統、西洋と東洋といった、一見矛盾し対立すると思われる要素も、難なく内包してしまう。ケルトと大英帝国の重層構造が英国を世界そのものにしてしまった、その時代の余裕がそこにも現れているのだろう。



11/3w
ピエール・ベルナール展
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

70年代、80年代にデザイン集団「グラピュス」を組織し活躍した、フランスを代表するグラフィック・デザイナーのピエール・ベルナールのデザインワークを紹介する展覧会。政治的主張や公共的目的で作られたポスター作品が中心だが、CI的なサインワークも含め作品を展示している。きっとスゴいヒトなのだろうし、そういう説明もある。しかし、個人的にはどうにも理解しがたいアートワークが多い。純粋にグラフィックデザインとしてみたとき、冗長・饒舌な部分が多すぎて、ストレートなメッセージがなかなか見えてこないのだ。
それなりに凝っていることは認めるし、作風に一貫したオリジナリティーがあることも認めるが、それがグラフィックデザインとして高い完成度にあるかというと疑問が残る。コピーワークではなく、アートワークである以上、言語依存の部分を越えて、直接的にメッセージが伝わらなくてはいけないし、それがまたアートの神髄と思うのだが、なんか「言語的説明性」の要素が多すぎるようでしっくりこない。そこがまたフランス・ウェイなのかもしれないのだが。
五月革命に代表される60年代末のフランスの学生運動の流れを汲み、その精神をデザインワークに活かしてきたとされている。フランスのエリート官僚主義に対抗し、政治的・文化的主張をアートワークに込めるのが特徴ということだ。とはいうものの、イデオロジカルな構造というのは、まさに弁証法の世界というか、正反対の対立者、対抗者まで含めて一つのシステマティックな世界をなす。ちょうど日本の政治における55年体制が、自民党と官僚だけでなく、社会党と労組にとっても実に住み心地のよい世界であり、共にささえあってきたようなものだ。そういう意味では、彼らもまた、フランスのエリート官僚政治システムと相携え、フランス的なるものをささえてきたということもできまいか。
まあ、日本は何とかいってアメリカ的な世界観の流れに近いところにある。それは、戦後のアメリカの影響という以前に、好むと好まざるとに関らず、「海を越えて渡ってきたものの子孫」という意味では、世界史的に似たポジションにあるからだ。そういう意味では、唯我独尊的なエゴ丸出しのフランス流は一番遠いところにあるのかもしれない。文化とか表現というものの意味も、根本的に違うのだろう。なんたって、文化は公費で育成する国なのだから。



11/2w
「間-20年後の帰還」
東京芸術大学美術館 上野

1970年代末から1980年代はじめにかけて、パリ、ニューヨークなど欧米の6カ所をめぐって開催された企画展の再構成展。その後80年代の日本文化の進出とともに盛んになった、日本のアートやカルチャーを体系的に紹介し、「フジヤマ、ゲイシャ、ソニーでない日本」展はいろいろな場所で何度も行われた。特にジャパンマネーのステータスが極大になったバブル期には、各国でこぞって「日本年」、「日本展」が行われたのもなつかしい。これはその嚆矢となったイベントだ。
展覧会自体は、リアルタイムのときも建築家磯崎新氏のプロデュースによるものだ。ちょうど、クインシー・ジョーンズのアルバムのようなもので、古典作品のレプリカや、他のアーチストの作品を組み合わせながら、プロデューサーの色が濃く出ているところが特徴だ。今回の再構成もまた磯崎新氏が行い、新たな作品群によりかなり意味合いの違う展示にしているが、らしさという点ではそうとうなものがある。良い悪いとか、好き嫌いとかいった、個人的な感性レベルではいろいろな声もあろうが、その存在感は流石というげきだろう。
ただ、このイベント(あえてイベントというが)の持つ意味は何かということについては、なかなか難しいものがある。ぼくらは70年代の状況をまがりなりにも知っているので、懐古的に扱うこともできるし、それを通して、あの時と今を比較することで、バブルにむかう80年代と、「失われた」90年代の本当の意味を考えることもできる。でもどう見ても、70年代が青春だった人をメインターゲットに語りかけている仕掛けではない。
もっとはっきりいえば、オリジナルである「あの時代」を過剰に意識した部分と、今をとらえようという部分が、中途半端に同居していて座りが悪いのだ。しかし70年代を今に再構成するといえば、音楽では再編ブームがある。そういう意味では、イーグルスの再編のようなものなのかもしれない。そう割り切ってしまえば、それなりに面白いし、人が入っている理由もわからないではないのだが。



11/1w
眠りからさめた古代 中国国宝展
東京国立博物館 上野

中国各地の遺跡から発掘された、新石器時代から唐代に至る国宝級の考古遺物を一堂に集めた展覧会。見たことがあるが、何度見ても味わいのある展示品もいくつかある。その一方で初見参で、びっくりするようなお宝も招来されている。どちらにしても、「発掘された古代の一級の考古資料」という共通項でくくられているので、中国の歴史が好きなものにとっては、全体の流れもまた楽しい。
中国の歴史的な流れから、ある時代以前のものはほとんど伝世品がなく、発掘されたものになってしまう。故宮博物院の、これでもかこれでもかと、物量と巨大さで迫る展示もそれなりに中国らしいスケール感があるが、こういう一つ一つの味わいを大事にする展示もまた趣きがある。それにしても、掘っても掘っても新しい遺跡が出てくるというのは、なんとも中国の巨大さ、懐の深さのなせるワザだろう。
かつて、秦関連の考古遺物の展覧会が開かれている期間中に、中国に行き、ちょうど陝西省博物館を訪ねたことがあった。すると、東京で見た出展品が本来置かれていたショーケースがそのままになっていて、埃がそこにはない展示物のカタチを描き出していた。まさに大陸的おおらかさといえばいいのだろうか。何か、微笑ましくなるアバウトさではないか。今回の展覧会でも、各地の博物館で「埃の輪郭線」」ができているのかと思うと、なんだか急にうれしくなってきてしまった。そっちのほうも見てみたいな。



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