Gallery of the Week-Jul.01●

(2001/07/27)



7/4w
メタモルフォーシス/ジュディス・スコット 第11回アウトサイダーアート展
資生堂ギャラリー 銀座

資生堂ギャラリーではおなじみの、アウトサイダーアート展。第11回になる今回は、アメリカのアウトサイダー・アーティスト、ジュディス・スコットの展覧会である。今回は、会場が広くなったこともあって、はじめて立体作品が取り上げられた。ヒモや布を使い、何かをくるみ、包み込んだオブジェが彼女の作品の特徴である。
こうやってみると、アウトサイダーアートは、絵画のような平面作品よりも、立体作品のほうが一段と存在感がある。それは三次元である分、イメージから二次元への変換が必要な絵画と違い、プリミティブなモチーフにストレートだからだろうか。やはり、ある種の作為が感じられる「絵画作品」と違い、コトバにならない部分のメッセージがなにか明確で小気味いい。
ジュディス・スコットは、耳もきこえず、言葉も話せない。おまけに7才から36年間施設に隔離され、そのあと双子の姉に引き取られてはじめて社会の風にふれた。その中で、障害者学習施設であるクリエーティブ・グロウス・アートセンターに参加。そこではじめて表現することをはじめたという。
幾重にも巻き重ねられたヒモ。その中には、何かが閉じ込められている。常人からすれば、ある種の根気と執念の結晶ということになるのだろうが、彼女にとってはそんな言葉はないのだろう。ただ、作りたいから作るだけ。それだけに、人間の持っている「ある部分」が純粋に昇華しているのだろう。これはなかなかいいと思う。



7/3w
菅原道真没後千百年 天神さまの美術
東京国立博物館 上野

信心のある人もない人も、受験シーズンになれば誰しも藁をもつかむ思いで神頼みに言ったことがあるであろう天神さま。その存在は、IMEでも一発変換したぐらい、日本人の生活の中に定着している。この展覧会は、天神さまこと菅原道真公の没後千百年を記念して開かれた、天神さまにまつわる品々の大博覧会である。会場は大きく四部構成にわかれており、天神縁起絵巻の数々、道真公由来の遺品、天神像とそれにまつわる神像、仏像、天神さまのお祭りにまつわるもの、と各々てんこ盛りである。
本居宣長ではないが、日本で神と呼ばれ、崇められる存在でカタチのあるものは、もともとは人間であった。菅原道真も、生きているうちは実在の生身の人間である。火を噴き嵐を呼んで祟る神になってしまったのは、後世の人々の所作である。この展覧会は、歴史を追ったかたちで天神伝説を見せてくれるので、歴史が段々と神話になってゆく過程が手に取るようにわかる。
もちろん、最初は直接「悪いこと」をした可能性のある人達が、身に降りかかった災難とかつての悪事を関連づけて、「祟り」としてそれをつぐなおうとしたのが最初である。しかし、鎌倉時代以降、沸き起こる大衆のパワーの中で、なんでもかんでも天神さまになってしまうのである。それはまさに、宗派宗教が土俗信仰に逆戻りするかのような、エントロピーの増大過程でもある。
要は何でも他人頼み。いいことのお願いも神様・仏様。悪いことのお祓いも神様、仏様。自助努力すれば、それを神様や阿弥陀様が見ているという、予定説の様な考えは、どこにも出てこない。ほんとに「甘え・無責任」がこびりついているっていうことを、改めて感じさせてくれる。「甘え・無責任」に祟ってくれる神様は、まったくもって日本にはいないものなのだろうか。困ったものだ。



7/2w
2001 ADC展
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

この数年、グラフィックが「総体としては」元気がなかった。それはグラフィックデザインをめぐるいろいろな環境変化、それはディジタル化のようなインフラ基盤の変化だったり、クライアントの広告ニーズの変化だったり、いろいろな原因が重なりにより引き起こされたモノだと思う。しかしここにきて、それは単に元気云々ではなく、デザインビジネスの構造のパラダイムシフトだったということが見えてきた。それが今回のADC展でもっとも目につく点かもしれない。
旧来の日本のデザイン界では、本当の意味でのアイディアや創造性がなくても、手練手管でポジションをキープする「大御所」が多かったし、それが主流だったかもしれない。しかし、ここに至って、自分の立脚点をキチンと自覚し、そこでのコンピタンスをしっかり持っているかどうかが、まず問われるような状況になってきている。それにこたえられなかった「高度成長期のビッグネーム」の化けの皮がついにハゲた、というのが最もストレートな言い方かもしれない。
しかし気になるのは、あくまでもこのパラダイムシフトが、単に送り手の側の変化、送り手の側の都合だけで起こっている点だ。昨今の「大衆」の構図を前提にすると、送り手側の変化に、受け手の側が合わさせられているというか、勝手に合わせすぎているようなキライも感じられる。これは送り手の側からすると、短期的にみれば楽で好ましい傾向ともいえるが、好事魔多し。ある意味では大変危険なことだ。過去のパラダイムは否定したものの、新しいパラダイムを提示できているかというと、必ずしもそうとは言い切れない人もまだまだ多いからだ。
元来そういう流れは長く続くものではないし、もともと大衆というのは飽きるのが早いものだ。キチンとそのトレンドを理解した上で、いわば確信犯としてやっているのならいざ知らず、そこまで悟り切ったヒトは少ない(もちろん、一握りの聡明な方がいるのは事実だが)のも否定できない現実だ。そういう意味では、落ち着くべきところに落ち着くまでには、まだまだ二転三転の波乱を覚悟しなければいけないということだろうか。



7/1w
女の70年代 1969-1986 パルコポスター展
東京都写真美術館 恵比寿

ぼくらの世代の広告業界人にとっては、パルコというのはいろいろな意味で特別なひびきを持っている。セゾングループ、当時の西武流通グループ自体、どの企業をとっても特別な時代感覚を発信していたのだが、その中でもパルコは格別だった。特に、コミュニケーション戦略、イメージ戦略という面では、明らかに時代をリードしていたし、時代を作っていた。それにぼくらは憧れていた。
基本的にコミュニケーションというのは、時間軸にへばりついた「使い捨て」のものである。その時に得た印象は、その時代の思い出とともにあるものであり、本来時間軸を越えて生きつづけるものではない。で、パルコのポスター展である。もっとも輝いていたその誕生から十数年間の、コミュニケーションのキーメディアであったポスターを120点集めた展覧会だ。
もともとコミュニケーションの手段である以上、正直言って青春時代の感傷にひたるようなものかと思ったが、全然そんなことはない。手法としては大時代的なアウト・オブ・デートな感覚の作品もあるが、極めて強い主張で作品自体が今でもアピールしている。全てが全てとは言わないが、時代を越えた完成度の作品であることを示している。
送り手の気合いが違うと、作り手の気合いも違う。作り手の気合いが違うと、作品のオーラが違う。当たり前のことではあるが、実際にビジネスの上ではなかなかその域に達することはできないのが、これまた常識でもある。これをやってしまう企業というのは、時代を作る企業である証しともいえる。そういう意味では、80年代に入ってからの作品は、明らかにパワーが違うこともよくわかる。それも事実なのだから、きっちり見せることも大事なのだろうが、なんか寂しい気持ちにさせる。本当に70年代の作品だけで見たかった気がする。



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